坂本龍馬(江戸時代)

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<出典:wikipedia

坂本龍馬 さかもとりょうま (1835-1867)

 

1835年。

坂本龍馬は土佐国(高知県)で生まれました。

龍馬は身分が低い武士の子で、小さいころは弱虫でした。

これを見た姉が剣術を勧めると、龍馬は心身ともにたくましくなっていきます。

 

1853年。

龍馬は江戸に出て、神田の千葉道場に入り剣術の修業をすることにします。

この年は、ペリーが来航した年で、龍馬も「外国船を打ち払え」という考えを持つようになります。

しかし、土佐では外国を打ち払うことはできず、龍馬は土佐藩を出ていくことに。

脱藩した坂本龍馬は江戸に出て、開国を主張する幕府軍奉行の勝海舟(かつかいしゅう)に会いに行きます。

このとき龍馬は勝海舟を殺すつもりでしたが、「国力を高めるには、貿易が必要だ」と説得され、その場で勝海舟の弟子となりました。

 

やがて、龍馬は勝海舟の紹介で鹿児島へ行き、薩摩藩の西郷隆盛(さいごうたかもり)と出会います。

薩摩藩の協力を得られるようになると、亀山社中(かめやましゃちゅう)を設立。

長崎で貿易を行い、武器や艦船を輸入して、薩摩藩や長州藩に売る仕事をはじめます。

鎖国から倒幕へ

このころ、長州藩では「外国を打ち払え」という意見が少なくなっていました。

代わりに主流となったのが、「幕府をたおして新しい政治をはじめよう」という意見。

高杉晋作(たかすぎしんさく)たちが、これを主導していました。

 

一方、薩摩藩でも鎖国から開国派へ方針を変えていました。

これを見た龍馬は、薩摩と長州が手を結べば、新しい国を作る大きな力になると考えます。

しかし、薩摩藩と長州藩は過去に争ったことがあるため、なかなか手を結べません。

そこで、1866年。

龍馬は、薩摩藩の西郷隆盛と長州藩の木戸孝允(たかよし)を京都で引き合わせます。

そして、「新しい日本をつくるためには薩摩藩と長州藩が協力する必要がある」と説得します。

こうして、薩摩と長州は同盟を結び、薩長連合が出来上がりました。

維新前に殺される

1867年。

龍馬は長崎から大阪へ向かう船の中で、倒幕後の新政府のあり方を描いた『船中八策』を記します。

ここには「いったん政権を朝廷に戻し、そのもとでヨーロッパやアメリカのような近代国家を作るべき」という考えが書かれていました。

龍馬は、これを土佐藩の後藤象二郎に見せると、前藩主の山内豊信(とよしげ)にはたらきかけます。

『船中八策』をもとにして、15代将軍徳川慶喜に政権を朝廷に返すように勧めてこい!・・・と。

 

1867年。

慶喜は龍馬の案を受け入れ、政権を返上。

こうして大政奉還が起こります。

 

1ヶ月後。

龍馬と中岡慎太郎は京都の宿屋で会談をしていました。

そこへ、いきなり数人の浪人が斬りこんできます。

これにより、2人は死亡。

新しい政府ができる直前にこの世を去ってしまいました。

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