江戸城の「大奥」は女の園。では「中奥」とは?

「大奥」なら映画やテレビの時代劇ドラマなどで聞いて知っている方も多くいらっしゃるでしょう。
江戸城にあり、男は将軍しか入ることのできないと言われる女性だけの世界です。
とても興味深いしきたりのある場所ですが、今回ご紹介するのは「大奥」ではなく「中奥(なかおく)」。
ご存知でしたか?
一体どういった場所なのでしょうか。

江戸城とは

江戸城とは、現在の東京都千代田区にあった城で、もともとは戦国武将の太田道灌(おおたどうかん)が築いた平城です。
何度かの改修ののちに、近世に徳川氏によって日本最大の面積を持つ城郭に仕上げられました。
徳川家の居城であり、江戸幕府の政庁。
現在では、皇居となっています。

江戸城の本丸天守は1607年、1623年、1638年の3度建てられましたが、1657年の明暦の大火で焼け落ちてしまいました。
城の周辺は有力大名の屋敷が建ち並び、門と塀に囲まれた壮大な江戸城の様子は『江戸図屏風』に残っています。

江戸城本丸の構造

江戸城の本丸の広さは南北約400m、東西約120~220mにも及びました。
本丸御殿の建物、内部は複雑な構造になっており、大きく3つに分れています。
それが「表(おもて)」「中奥」「大奥」です。

「表」は、儀式や執務を行う公の場所でした。
将軍と諸大名が一堂に会する場所「大広間」や将軍の応接間の機能を果たした「白書院」などがあります。
「表」に続くのが「中奥」で、その先が「大奥」です。
「表」「中奥」「大奥」の3つの区画の中では「中奥」が面積では一番小さなエリアとなっていました。

「中奥」では何が行われたか

「中奥」は、将軍が政務と日常生活の両方を送った場所です。
「表」と「中奥」との間には決まった出入り口である「御錠口」があります。
江戸城に入城できるものが誰でも「中奥」に出入りできるわけではありません。
将軍の一族や一定以上の身分の者、そして中奥担当の役人などが「御錠口」を通じて行き来していました。

主に将軍が生活する場所となるのが「御座所(ござしょ)」です。
そこには老中や若年寄などと話しをする場所や、将軍の寝所兼執務室である「御休息の間」、訴状に目を通す「御用の間」や湯殿、能舞台などもありました。
ちなみに、将軍以外の男性が入ることを許されない「大奥」へ通じる廊下は、「御鈴廊下(おすずろうか)」と呼ばれていました。
将軍が奥入(おくいり/大奥に入ること)をするときには鈴を鳴らして通っていったということです。
大奥には将軍家の子女や奥女中たちが暮らしていました。

「表」は式典などの儀礼的な空間が多かったのでその伝統的な造りが保たれていたようですが、「中奥」は言わば将軍の自宅。
そのため、各将軍の好みに合わせていろいろと改造されたそうです。

「中奥」に勤務する人々

将軍以外では、主に将軍の世話をする人々が働いていました。
側衆(そばしゅう)、小姓、小納戸(こなんど)と呼ばれた人たちです。

彼らを取りまとめたのが側用人、のちの御側御用取次(おそばごようとりつぎ)です。
第5代将軍徳川綱吉の時の柳沢吉保(やなぎさわよしやす)、第6代将軍家宣(いえのぶ)、第7代将軍家継の間部詮房(まなべあきふさ)などが将軍の側近として活躍しました。
それら以外には、将軍の家庭教師をする奥儒者(おくじゅしゃ)、奥医師、そして隠密役を務めた御庭番(おにわばん)などという役職の人々も「中奥」で働いていました。

徳川家康が1603年に江戸開府し、1660年にほぼ拡張が終了して完成形となった江戸城は、それ以降200年以上にわたって江戸幕府の中枢機関でした。
中でも、「中奥」は将軍や仕える人々が頭脳を結集して幕府の重要な事柄について思案し、画策した場所といえるでしょう。

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