【忠臣蔵】48人目の赤穂義士・萱野三平

<赤穂義士墓所/出典:wikipedia

人形浄瑠璃・歌舞伎の「忠臣蔵」で有名な赤穂藩の47人の義士についてはご存知の方も多いでしょう。
今回は、ある理由で47名の義士たちと一緒に討ち入りしたくてもできなかった48人目の義士のお話です。

赤穂事件

赤穂事件とは、1703年1月30日の深夜、元赤穂藩士たちが吉良上野介(吉良義央/よしひさ)の屋敷に討ち入り、上野介と家人たちを討取った事件のことです。
江戸城内で刃傷沙汰を起こし、お咎めのなかった吉良上野介に対し、
赤穂藩主・浅野内匠頭(浅野長矩/あさのながのり)は切腹、藩はお取りつぶしになっていました。
そこで、赤穂藩の元藩士大石良雄(大石内蔵助)以下47人たちが主人の敵討ちを実行したのです。
その後、47名の浪士たちは、4つの大名家に預けられ、1703年3月20日に全員切腹となりました。
彼らの遺骸は主人である浅野内匠頭と同じ泉岳寺に埋葬され、その悲劇は芝居や歌舞伎の「忠臣蔵」として人気を博しました。

48人目とは誰か

その47人の義士の悲劇の影にもう一つ別の悲劇がありました。

48人目の義士・萱野三平(萱野重実/かやのしげざね/1675~1702年)
源氏の子孫で、現在の大阪府箕面市(みのおし)萱野に領地を持つ豪族の3男。
俳人としても知られていました。

1701年3月14日。
主君・浅野内匠頭が江戸城の松の廊下で吉良上野介を斬りつけた時、三平は浅野家の江戸屋敷にいました。
そして、この大事件発生を赤穂に知らせるため、同じ江戸にいた早水藤左衛門と共に、浅野内匠頭の弟であり養子でもある浅野大学の書状を持って早駕籠(はやかご)に飛び乗りました。
萱野三平こそ最初に事件を赤穂に知らせた人物でした。

歩けば17日。
飛脚でも8日の江戸から赤穂への旅。
道中では、偶然自分の母親の葬列に出くわしています。
しかし、同行の藤左衛門が「ひと目会っていけ」と勧めるのを振り切って、三平は涙を流しながら合掌し先を急ぎました。
そして、わずか4日で赤穗に到着しました。

4日間の早駕籠に揺られ、なんとか赤穂に到着した三平と藤左衛門。
へとへとの2人は、内蔵助の屋敷近くの井戸で水を飲み、息を整えてから事件の第一報を藩に伝えました。
その時の井戸は「息継ぎ井戸」として今も赤穂に残っています。

事件を藩に伝えた三平は、そのまま主人の仇討ちのメンバーとして加わりました。

三平が直面した難問

結局、幕府の赤穂藩への沙汰はお取りつぶし。
城は開城し、多くの仲間の藩士と同様、浪人になった三平は、郷里の摂津萱野村へ戻ります。
すると、父親が浪人の三平に別の仕官の話しを強く勧めたのです。
ありがたいはずの話も、その時の三平にとっては大問題でした。

第一に、三平は仲間たちと共に神に誓い、親にも他言できない仇討ちの約束がありました。
第二に、勧められた仕官先は仇討ちの相手の吉良家に繋がる家柄でした。

三平は、親に仇討ちのことを話すことは出来ず、また、他家への仕官、ましてや仇討ち相手に繋がる家への仕官など出来るはずもありません。
かといって仕官を断れば父親に申し訳が立たない・・・。
三平は亡君への忠義、仲間への義理、親への孝行にがんじがらめになりました。

三平の決断

苦しんだ三平が下した決断は自害。
主君の月命日1月14日を自決の日と決め、京の山科にいた大石内蔵助に遺書を書きました。
約束を守れなかった自分を侘び、仲間への励ましの言葉を添え、そして父への遺書も遺しました。

切腹前夜には父や兄嫁と談笑しています。
その後自室に戻った三平は、明け方近く主君の墓所に向かいながら脇差を腹に突き立てました。
朝になっても起きてこない三平を心配した家人が彼の変わり果てた姿を発見しています。
こうして討ち入りに参加したくてもできなかった三平は、せめて心だけは仲間たちと共にありたいと一足先にこの世を去ってしまいました。
これが、萱野三平が48番目の義士と呼ばれることになったいきさつです。

三平の辞世

同志たちが眠る泉岳寺の墓所には、三平の供養碑が建てられています。
彼の墓所は、大阪に現存する彼の実家から近い萱野家の墓地内にあります。
三平が切腹した部屋の横にある句碑には彼の辞世の句がこう刻まれています。

晴れゆくや 日頃心の 花曇り

涓泉(けんせん/三平の俳号)

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