超有能。第三代奇兵隊総督・赤禰武人が29歳で処刑されたワケ。

下関戦争を観戦していたアーネスト・サトウは、関門海峡の前線で指揮を執るひとりの長州男児に気付きました。
長州藩の奇兵隊所属・赤禰武人です。

松下村塾メンバーであり、第三代奇兵隊総督となった赤禰武人は、初代奇兵隊総督・高杉晋作の親友でもありました。
奇兵隊の総督は簡単につとまるものではありませんでした。
高杉晋作がいなくなったあと、奇兵隊は赤禰武人にしかまとめることができなかったのです。

しかし、そんな有能な赤禰武人は、29歳で処刑されてしまいました。
今回は、波乱万丈は生涯を駆け抜けた赤禰武人をご紹介します。

瀬戸内海の大自然に誕生した神童

瀬戸内ブルーにきらめく安芸灘にある柱島。
小さな島ではありましたが海の幸・山の幸に恵まれて、島民たちは豊かな生活を送っていました。
そんな柱島に誕生したのが赤禰武人でした。
柱島の医師である松崎家の次男として、大自然の中で育てられました。

赤禰武人は神童と思えるほどの秀才っぷりでした。
また、松下村塾の塾生となっていたこともありました。
経緯はわかりませんが、赤禰武人は18歳のときに松下村塾に入門し、吉田松陰から指導を受けていたのです。
松下村塾には、高杉晋作がいました。
赤禰武人は、ひとつ年下の高杉晋作と意気投合して親友になりました。
松下村塾在籍1年が経ち。
長州藩重臣浦家の家老である赤禰家の養子となり、赤禰武人は武士の身分を得ることができました。

ほどなくして、吉田松陰の紹介によって梅田雲浜の望南塾に通いましたが、梅田雲浜は安政の大獄によって処刑されてしまいます。
このとき、吉田松陰とともに救出しようとしましたが、失敗に終わっています。
謹慎処分から解放されたときには、すでに吉田松陰も処刑されてしまっていました。
ここから松下村塾のメンバーと尊王攘夷運動に突き進むことになりました。

第三代奇兵隊総督をそつなくこなす逸材

赤禰武人
・松下村塾OBとして複数人で英国領事館焼き討ちを実行。
・奇兵隊の結成からメンバーとなって下関戦争も死線を潜り抜ける。
・第三代奇兵隊総督になってからは、さまざまな身分の人間が寄せ集まっている奇兵隊を上手くまとめる。

赤禰武人は、下関戦争の敗北から、攘夷をすることが長州藩のためになるのか疑問を抱くようになっていました。
そして後任として軍艦・山形有朋を指名して総督を辞任しました。
不可能な攘夷をするよりも、国防につとめるべきだと思ったのです。

故郷の柱島に里帰りをしていた赤禰武人は、ほどなくして奇兵隊から呼び戻されました。
第四代総督・山形有朋では奇兵隊をまとめることはできなかったのです。

奇兵隊に復帰してから、俗論派(幕府に恭順姿勢をとる派閥)と正義派(倒幕をはかる派閥)が対立する藩内に戦争を回避するよう働きかけます。
ですがこの行動が、俗論派からも正義派からも二重スパイの疑いをかけられる結果になってしまいました。

さらに功山寺で挙兵した高杉晋作が、藩論を倒幕に統一したことで、かつての親友と対立しなければならなくなりました。
正義派が勢いづく長州藩にあって、赤禰武人の立場は危うくなっていきました。
そして、身の危険にさらされ、逃亡・・・。

真実と偽りの板挟みでも貫き通した正義

赤禰武人は京阪地方に潜伏するも、長州関係者ではなく幕府関係者につかまり、京都の六角獄に放り込まれました。
「こんなところで捕まっている場合ではない」
獄中でありながら、幕府に急務五箇条という意見書を提出しました。
第二次長州征伐で、西洋列強に隙を与えてはならないという内容のものでした。

この意見書が評価され、長州藩を説得するために出獄が許されます。
広島までは幕府関係者が同行していました。
新選組の近藤勇もそのひとりです。
広島までの旅程でふたりはとても親しくなったといわれています。

ですが、二重スパイの疑いを持たれたままの赤禰武人による説得は難航しました。
第二次長州征伐を回避したい萩藩主や支藩藩主たちに支持されながらも、故郷の柱島に逃げるしかありませんでした。

柱島で捕縛されたとき、事情を説明したうえで自分の主張に間違いがあるのか問いただしてもらたいとうったえますが、その機会は与えられることなく処刑されました。

真は誠に偽に似
偽は以て真に似たり

処刑をひかえた赤禰武人は、着物の背中にこのような辞世の句をのこしています。
真実は偽りに似ている、偽りは真実に似ているという意味です。
真実と偽りの板挟みとなりながら、正義を貫こうとした生き様が感じられます。

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