<出典:wikipedia>
出雲国風土記 ―いずものくにふどき―
成立:733年
作成立案:元明天皇
713年。
元明天皇の命令により『出雲国風土記』が作成されることになります。
この書物には、出雲の国の地名や伝承、産物、土地の状態などがまとめられました。
出雲の国以外にも、『常陸国風土記』や『播磨国風土記』など、別の地域についての書物も作られました。
現在まで完全な形で残っているのは『出雲国風土記』だけで、他は一部が欠けていたり消失したりしています。
720年に成立した『日本書紀』には風土記の内容が引用されています。
しかし、『日本書紀』に掲載されている出雲に関する伝説(大国主命の本拠地、スサノオがヤマタノオロチを退治)が、『出雲国風土記』には記されておらず、この謎が妄想を駆り立ててくれます。
以下、『出雲国風土記』の代表的な話を紹介します。
国引きの伝説
八束水臣津野命(やつかみずおみつののみこと)が言います。
「出雲の国はまだ作ったばかりの若い国。小さいから他の土地をくっつけて大きくしよう」
「新羅の岬には余分な土地があるではないか」
そして幅広い鋤を持ち、その土地に突き刺し切り離す。
切り離した土地を三本綱で引き寄せくっつける。
こうしてできたのが、小津の岬であった。
国引きはこれだけでは終わらない。
佐伎(さき)の国から狭田(さだ)の国を!
農波(ぬなみ)から闇見(くらみ)の国を!!
高志の都都(つつ)の岬から三穂の崎を引き寄せる。
ヤツカミズオミツノは「これで国引きは終わった」と杖を突き立て、国引き終了。
このとき「おゑ」といったので、その地を意宇(おう)と呼ぶようになりました。
八雲立つ出雲の国の伝説
出雲の国づくりをした大国主命。
八岐大蛇を退治し、帰るときに長江山でこう言います。
「私が作って統治する国は天孫に平穏に統治してくださいとお譲りした。ただし、八雲立つ出雲の国は私が鎮座する国であると、青い垣根のように周囲に山をめぐらし、神の霊代を置いて守(も)っていこう」
こうして、この地は文理(もり)と呼ばれるようになりました。