<出典:wikipedia>
日本書紀
成立:720年
作成立案:天武天皇
中国へのアピール!!『日本書紀』の作成
飛鳥時代。
『古事記』作成を命じた天武天皇は、あることに気がつきます。
「中国に認知されるには、『古事記』のような神話物語ではなく、中国の史書のような形式の書物が必要である」と。
こうして、作成がはじまった『日本書紀』ですが、長い年月を要する巨大プロジェクトで、完成したのはなんと四代後の元正天皇になってからでした。
日本書紀は全部で三十巻となっています。
第1~2巻:神代の時代
第3~30巻:神武天皇から持統天皇の業績
内容は、『古事記』とほぼ同じですが、日付を詳しく記しており、『帝紀』と『旧辞』以外の史料の異説も紹介されているため、歴史書としての信憑性が高くなっています。
また、『古事記』と比べて神話の比重が軽く、歴代天皇の業績を称えることに重きを置いています。
ただ、その分、天皇の功績を強調するよう改変されたような場所も多く見られます。
千年の時を経て・・・
史書として編纂された『日本書紀』ですが、初期の天皇の項を見ると天つ神とのつながりを示す記述も見られます。
この記述を利用したのが明治政府でした。
天皇中心の国家づくりを目指した明治政府は、『日本書紀』を利用し、天皇や皇族の神格化をすすめました。
戦前・戦中の学校教育では、神武天皇や神功皇后(じんぐうこうごう)の伝説が教えられました。
初代天皇、神武天皇の伝説
カムヤマトイワレビコは45歳のとき。
「東に良い国があるから、そこに行き都を造ろう」と考えます。
東の国に向かう途中。
長髄彦(ながすねひこ)と戦うことになり、苦戦します。
いったん兵を退いたカムヤマトイワレビコは、夢の中でアマテラスが遣わした八咫烏に導かれます。
この導きに従って進み、長髄彦との再戦します。
すると、突然。
氷雨が降り、稲妻のように光る鵄(とび)が現れます。
これに圧倒された長髄彦の軍は戦えなくなり、見限った長髄彦の弟が長髄彦を討ちとります。
長髄彦を退けたカムヤマトイワレビコ。
途中、土蜘蛛を征伐し、都を造り、神武天皇となりました。
神功皇后の伝説
第十四代の仲哀天皇は、熊襲(くまそ)を討とうと考えます。
しかし、神功皇后は神託を受け、新羅を討つように勧めます。
仲哀天皇はこれを信じず熊襲を討ちますが、その翌年急死してしまいます。
神宮天皇は再び神託をうかがいに行かせ、新羅征伐を決意。
当時、妊娠中であったにも関わらず男装して軍船に乗りこみます。
神宮天皇は無事に新羅を降伏させ、筑紫で出産します。
このときの子が後に應神天皇となりました。