<出典:wikipedia>
高瀬川沿いにある枡屋が新選組に家宅捜索されているところ。
人垣から様子を伺がっていた宮部鼎蔵(みやべ ていぞう)は、その場をすっと離れました。
世話になっていた枡屋には立ち入れない。
まずはスポンサー・枡屋喜右衛門こと古高俊太郎について判断しなければならない。
すぐさま尊攘志士たちに連絡しました。
「かくかくしかじか……これによって、今宵は木屋町の旅籠・池田屋にて落ち合う。」
京都に潜伏する志士たちに、宮部鼎蔵からはこのような招集命令が出されたはずです。
変装をしている桂小五郎にも、青年尊攘志士たちをまとめている吉田稔麿にも伝わったでしょう。
実は池田屋事件で新選組にとって「大物」だったのは、桂小五郎でも吉田稔麿でもなく、この宮部鼎蔵でした。
吉田松陰の親友であったという宮部鼎蔵とはどのような人物だったのでしょうか。
今回はあまりクローズアップされることがない宮部鼎蔵をご紹介します。
宮部鼎蔵は何者?
宮部鼎蔵は、肥後藩の藩士、さらにその分家に誕生しました。
そして地元で信頼される医師の家柄であったため、自身も医者として身を立てようと熊本城下に向かいました。
その後、鼎蔵は、藩校・再春館の師範役であった富田家の蒼莨塾で医術の習得に励みながら、文武両道を目指してさまざまな知識を吸収しつつ剣術修行に明け暮れました。
この蒼莨塾の富田大鳳が尊王攘夷の思想家であり、宮部鼎蔵に大きな影響を与えました。
天保の大飢饉で貧しい生活を余儀なくされながら、蒼莨塾を修了した宮部鼎蔵。
地元には戻らず、叔父の宮部丈左衛門から山鹿流兵法を教わるようになりました。
山鹿流兵法を極めて藩の兵学師範に抜擢されるようになるころには、すでに山鹿流兵法の学者では知らぬ人はいないというほどの人物になりました。
宮部鼎蔵は吉田松陰の親友だった
山鹿流兵法を極めたことで、肥後まで吉田松陰が訪ねてきました。
このとき宮部鼎蔵は30歳、吉田松陰は20歳。
二人の山鹿流兵学者は、年齢差などものともせずに親友となりました。
二人は、山鹿流の祖にあたる山鹿素行の子孫・山鹿素水にそろって入門もしています。
また、二人で東北旅行計画も立てました。
目的は東北を拠点とする有名人物たちと面会、各藩の最新施設・設備、さらには外国船を見学すること。
この旅行に行くにあたり、通行手形の手配が間に合わなかった吉田松陰は、脱藩までして東北へ向かっています。
当時、脱藩は死罪になることもある重罪でした。
ですが、吉田松陰にとっては親友との旅行のほうが重要だったようです。
親友・吉田松陰が打ち明けた密航計画。
再来航する黒船に乗り込んで、アメリカ留学をするというものでした。
これには、宮部鼎蔵も反対しましたが、吉田松陰の熱意をくんで愛刀と藤崎八幡宮の神鏡を持たせて見送りました。
しかし宮部鼎蔵の危惧したとおり、密航計画は失敗。
吉田松陰は実家での幽閉生活を送ることになり、関係者として宮部鼎蔵も連座で処分されました。
このとき、藩内の乱闘事件に実弟が関与していたため、兵法師範の地位も剥奪されました。
そして宮部鼎蔵は、故郷で地元の青年たちに勉強を教えながら竹細工の内職をして生計を立てることとなりました。
二人は、それぞれに不自由な生活を余儀なくされながらも、
友情は確かなもので、手紙のやりとりが続けられました。
宮部鼎蔵は池田屋事件の大物
肥後の田舎でつつましやかな生活をしていた宮部鼎蔵が、京都で「大物」といわれるほどの尊攘志士になったのは、安政の大獄で吉田松陰が処刑されたことがきっかけでした。
宮部鼎蔵は「肥後勤王党」を立ち上げ、さらには尊王攘夷活動の拠点となっている京都に乗り込みました。
京都御親兵を組織するようになると、総監となって3000人という尊攘志士を統率するまでなります。
その後、八月十八日の政変が起きてからは、脱藩して三条実美に仕えました。
京都での活動を再開すると、吉田松陰の教え子である桂小五郎、吉田稔麿と連携して、スポンサーの古高俊太郎のもとで生活を始めました。
1864年6月5日。
現在でいえば京都府警のような治安維持の役割を担っていた新選組は、調査によって古高俊太郎の存在をつかみ、逮捕と家宅捜査に踏み切りました。
その日のうちに、対応を協議するために志士たちが池田屋に集まりました。
しかし、新選組の立ち入り調査によって池田屋で乱闘開始。
宮部鼎蔵はその場で潔く自刃しました。
親友の成し遂げられなかった尊王攘夷活動をするも、宮部鼎蔵は新しい時代を見られずに、この世を去ったのでした。