下関の櫻山神社には招魂社であるため神柱が並んでいます。
この招魂社で杯を傾けたり三味線を演奏したり、あるいはなにごとかを話しかけたり、高杉晋作は自由気ままに過ごしていたといわれています。
招魂社には師とあおいだ吉田松陰の神霊が祀られています。
この招魂社設立も高杉晋作の提案によるものでした。
療養生活を余儀なくされ、持て余した時間を招魂社に祀られた吉田松陰のもとで送った高杉晋作。
彼はどのような気持ちで生と死に向き合っていたのでしょうか。
招魂社にまつわるエピソードから、高杉晋作の人生観を紐解くとともに、この地でむかえた最期をご紹介していきます。
奇兵隊を組織した高杉晋作の生涯
現在では長距離バスや在来線で移動することになる長州藩の城下町・萩と港町・下関。
長距離バスだったら、山口に移動しなければなりませんし、山間を抜ける在来線も想像以上に移動時間がかかります。
萩の出身である高杉晋作は自らの提案で奇兵隊を組織すると、頻繁に萩と下関を移動するようになりました。
長府の功山寺で挙兵したときは、さらに下関から関門海峡の沿岸部を駆け抜けたことでしょう。
藩校・明倫館の同級生・久坂玄瑞の紹介で、松下村塾の吉田松陰に師事するようになった高杉晋作は、
清国が欧米列強の植民地となっている現状を目の当たりにして、
帰国後には尊王攘夷運動に奔走するようになりました。
そして、清国のような植民地にならないためにも、軍事力の拡張を課題にあげました。
高杉晋作は身分を問わずに有志によって組織される奇兵隊を提案しました。
下関の防衛を任じられたことで、結成は下関の地になりました。
招魂社がもとになっている櫻山神社も奇兵隊の訓練場のひとつだったのです。
その後、奇兵隊総督のポジションではなくなりましたが、尊王攘夷派の中心人物として、下関戦争の講話を皮切りに、功山寺挙兵や第二次長州征伐で活躍しました。
ですが、肺結核をわずらい29歳でこの世を去りました。
日本初の招魂社を実現した高杉晋作
櫻山招魂場は奇兵隊の嘆願によって設立されました。
現在は下関市指定の記念物となっています。
この日本初の招魂場を提案したのは、奇兵隊総督の高杉晋作でした。
招魂場の設置場所は、奇兵隊で候補地をしぼり、訓練場としても馴染みがあった櫻山に決定しました。
創設は1864年。
翌年には招魂祭がおこなわれました。
この招魂祭の起源は1862年の京都にさかのぼります。
京都の霊山において、殉死した尊攘の志士たちを慰霊した祭祀です。
招魂場とは国家のために殉死した人々の英霊を奉納した神社のことです。
奇兵隊の殉死者をとむらうためのものでした。
招魂祭のあとには吉田松陰の神霊が祭られています。
猛烈の奇兵にあって、なにを志すところか。
死をもって国家に報いなければならない。
もっともよろこぶべき功績をあげよう。
一緒に招魂場の花とならん。
ともらわれる人であるべきである。
とむらう人となるとは何とも恥ずかしきことである。
招魂祭で高杉晋作がおさめた漢文と歌が櫻山神社に石碑として遺されています。
現代語訳にするとこのような内容です。
この招魂場に込めた思いから、高杉晋作の人生観もみえてきます。
櫻山神社のふもとでむかえた最期の瞬間
櫻山招魂場のふもとで療養生活を送っていた高杉晋作は、体調がよければ招魂場を訪れていました。
安政の大獄で処刑された吉田松陰、池田屋事件で討たれた吉田稔麿、禁門の変で命を落とした久坂玄瑞と入江九一たちの神柱の傍で酒を飲んでいたといわれています。
奇兵隊関係者は高級品であるうなぎや氷砂糖などを届けていました。
また、医者を手配したり、結核に効果がある薬を調達したり、高杉晋作のために尽力していました。
奇兵隊の総督としての在任期間は短いものでしたが、その後も功山寺での挙兵や第二次長州征伐では共闘していることもあり、面識があったばかりでなく、慕われていたことがよくわかります。
「桜山七絶 時に予家を桜山の下に移す」というタイトルの漢詩があります。
櫻山に移り住んだことを疑問に思うかもしれないが不思議なことはない。
朝方にも夕方にも、松陰先生、友人たち、仲間たちの廟前に落ちる紅葉を払ってあげたいだけなのだから。
気まぐれに酒を飲みながら療養している高杉晋作でしたが、心のうちではこのようなことを思っていました。櫻山招魂社からもわかるとおり、奇兵隊へも思い入れがあり、訓練地のひとつであった吉田の地へ埋葬されることを望んだのです。
櫻山神社の招魂社には高杉晋作の神柱が、数えきれない志士たちの神注と一緒に並んでいます。
下関の街並みから関門海峡まで、新しい時代を見つめていることでしょう。