<出典;wikipedia>
万葉集
成立:奈良時代後期
巻数:20巻
歌数:約4500首
編纂者:大伴家持(おおとものやかもち)など
『万葉集』は奈良時代後期に作られた、現存する最古の歌集です。
天皇や貴族の歌だけでなく、辺境の地の兵士の歌や、乞食者(寿言を唱えて回る芸人のようなもの)の歌まで、様々な階層の人の歌が収録されています。
このことから、この時代は歌を詠むという表現方法が下層階級にまで浸透しており、人々は歌の前に平等だったとも考えられます。
歌の形式もバラエティに富んでおり、以下のものが記載されています。
【短歌】
「五 七 五 七 七」の句からなる歌
【長歌】
「五 七 五 七 五 七(繰り返し)・・・七」の句で構成される歌
【旋頭歌】(せどうか)
「五 七 七 五 七 七」の六句からなる歌
【仏足石歌】(ぶっそくせきか)
「五 七 五 七 七 七」の六句からなる歌
始まりの歌と締めの歌を紹介!!
◇ はじまりの歌 ◇
籠(こ)もよ み籠持ち 掘串(ふくし)もよ み掘串持ち この岡に 菜摘ます児(こ) 家聞かな 名告(なの)らさね そらみつ 大和の国は おしなべて吾こそ居れ しきなべて吾こそ居れ 吾こそは告らめ 家をも名をも 【意味】 [1巻-1] |
『万葉集』の最初に収録されている、雄略天皇の長歌。
「この大和の国は私が治めているのだ」という内容のものです。
『万葉集』が編纂された時代は、各地に豪族がいました。
そのなかで、頭ひとつ抜け出し、統治者としての地位を固めた天皇が、自らの威光を示す歌を詠んだようです。
※一般的な解釈を紹介しましたが、全く別の解釈があります。
天皇が「シラス」による統治をしていたのなら、別の解釈の方がしっくりきます。
(⇒教育勅語から見るシラスの考え方)
◇ 最後の歌 ◇
新しき 年の始の 初春の 今日降る雪の いや重(し)け吉事(よごと)
【意味】 [20巻-4516] |
大伴家持の寿(ことほぎ)の歌。
約4500首が納められた歌集の最後に、自身が詠んだ寿の歌をもってきていることから、大伴家持がどのような想いを込めて歌集を作ったのか想像が膨らみます。
その他、代表的な歌を紹介!!
◇ 恋の歌 ◇
額田王は、大海人皇子(天武天皇)の恋人で、無事に子供も産みます。
しかし、その後、大海人皇子の弟の中大兄皇子(天智天皇)と恋をしました。
次の歌は、遊猟の際に、大海人皇子が元恋人の額田王に向かって袖を振り、愛を伝えたときのやりとりです。
茜(あかね)さす 紫野行き標野(しめの)行き野守(のもり)は見ずや君が袖振る
【意味】 [1巻-20] 紫草(むらさき)の にほへる妹(いも)を 憎くあらば 人妻ゆゑに われ恋ひめやも 【意味】 [1巻-21] |
◇ お酒の歌 ◇
験(しるし)なき 物を念(おも)はずは 一杯(ひとつき)の 濁れる酒を 飲むべくあるらし
【意味】 [3巻-3379] |
昔の歌集というと堅苦しいイメージがありますが、このような歌まで掲載されているのはとても興味深いです。
どのような意味合いで詠まれたものかは分かりませんが、ある意味、究極のお酒を飲む口実。(※教訓の意味合いかもしれません)
いかにバラエティに富んだ歌集なのかが分かります。
◇ 兵の妻の歌 ◇
防人(さきもり)に 行くは誰(た)が夫(せ)と 問ふ人を 見るがともしさ 物思ひせず 【意味】 [20巻-4425] |
まだ、政権が安定していなかった大和朝廷は、ほかの豪族や先住民との戦いを繰り返していました。
そのため、兵として辺境の地に飛ばされる若者も多く、生きて帰ってこられない人も大勢いました。
この歌からは、兵の妻の辛さが伝わってきます。