<出典:wikipedia>
水野忠邦 みずのただくに (1794-1851)
1749年。
水野忠邦は唐津藩(佐賀県)の藩主の子として誕生。
兄が早くに亡くなったため、跡継ぎとなり、19歳で藩主となりました。
早くから幕府の政治に参加したいと考えていた忠邦は、藩主になって間もなく、大名が将軍に会うときの世話係になりました。
さらに出世を目指して、忠邦は唐津から浜松(静岡県)に領地を変えてもらいます。
その後、大阪城代・京都所司代などの重職について、1834年。
ついに老中となり、やがて老中のトップとなって政治の最高責任者となりました。
しかし、最高責任者と言っても、前の将軍・徳川家斉が大御所として実権を握っていたため、なかなか思うような政治はできませんでした。
天保の改革を開始
1841年。
徳川家斉が亡くなると、家斉のもとで政治を仕切っていた人々を解雇。
幕府の政治改革を宣言します。
まずは倹約令。
贅沢品の禁止だけでなく、値段の高いお菓子や料理も禁止。
歌舞伎や小説などの娯楽も統制し、町奉行を使って厳しく取り締まりました。
また、物価を下げるため、商売を独占している株仲間を解散。
しかし、物価高の原因は株仲間にあったのではなく、生産地から入ってくる品物不足にありました。
そんななか株仲間を解散させてしまったため、物流が混乱し、さらに品物が集まらなくなり、値段が上がってしまいました。
天保の大飢饉で荒れた農地を耕すため、「人返しの法」も制定。
農民の江戸への出稼ぎを禁止します。
これにより、江戸に出ている農民を強制的に自分の村に帰し、農地を開拓させました。
天保の改革が失敗する
1843年。
忠邦は幕府の権力を高めるため、「上知令」を考案。
江戸・大阪周辺の大名や旗本の領地を、幕府の支配地にして財政を安定させ、外国の驚異に備えようとします。
しかし、領地を取り上げられそうになった大名たちが猛反発。
結局実施できずに終わります。
「上知令」の失敗により、忠邦は老中をやめさせられます。
あまりにも急激に改革を行ったため、わずか2年5ヶ月で改革は失敗に終わったのです。
1844年。
水野忠邦はふたたび老中になりましたが、以前ほどの力はなく、すぐに辞職してしまいます。