<出典:wikipedia>
大塩平八郎 おおしおへいはちろう (1793-1837)
1793年。
大塩平八郎は大坂町奉行所の役人の家に生まれました。
小さいころに両親が亡くなったため、祖父のもとで育っていきます。
13歳のころ。
平八郎は見習いとして奉行所に勤め始めます。
役人としての平八郎は、厳しくて正義感が強い、立派な役人でした。
このころ、儒学者の頼山陽(らいさんよう)とも交流。
学問にはげみ、特に陽明学を学びました。
38歳になった平八郎。
役人をやめて、自宅で洗心洞という塾を開き、人々に学問を教えます。
生徒には役人仲間の子どもや、商人、農家の人たちがいました。
天明の大飢饉に苦しむ
1836年。
天明の大飢饉が起こり、全国各地で百姓一揆や打ちこわしが発生。
大商人は米を買占め値段が吊り上がり、貧しい人々は米を買えず飢えに苦しみました。
これを見た、平八郎。
奉行所や大商人に人々を助けるように頼みます。
しかし、聞き入れてもらえず、平八郎は自分のことしか考えない役人や大商人を懲らしめるために反乱を起こす決意をします。
1837年。
平八郎は、自分の書物5万冊を売って、そのお金を貧しい人々に分け与えました。
そして、「商人どもをやっつけて、彼らの隠している金や米を分けるので、大阪に騒動がおこったら駆けつけるように!」というビラを、密かに配り歩きます。
こうして準備を終えた平八郎は、1837年。
ついに反乱を起こしました。
「救民」の旗を掲げた同志30人は大砲を打ち、大商人の家に火をつけて進んで回ります。
すると、徐々にその勢力は大きくなり、300人もの人が集まります。
しかし、奉行所の軍勢が出てくると、すぐに散り散りになり鎮圧されてしまいました。
その後、大城平八郎は、役人に見つからないように隠れて過ごします。
ところがすぐに見つかってしまい、平八郎は自殺しました。
大塩平八郎の乱は失敗に終わりましたが、これに影響されて各地で一揆が多発。
幕府の政治に対して不満が高まっていきます。