<出典:wikipedia>
歌川広重 うたがわひろしげ (1797-1858)
1797年。
歌川広重は、江戸の消防を担当する役人、安藤家の子として誕生。
小さいころから絵が得意で、10歳のころ琉球使節の行列の絵を描いて、父を驚かせました。
13歳のとき。
広重の両親が亡くなってしまい、広重は父のあとを継ぎます。
また、絵が好きだった広重は、仕事をしながら人気浮世絵師の歌川豊国に絵を学ぼうとします。
しかし、満員を理由に断られてしまいます。
15歳になった広重。
ようやく、浮世絵師の歌川豊広の弟子になることができました。
そして、翌年。
先生の字を1字もらい歌川広重を名乗ることとなりました。
役人の仕事をつづけながら、本格的に絵を描くようになった広重。
このころ流行していた、歌舞伎役者の絵や美人画などを描くようになります。
しかし、いっこうに芽が出ず・・・。
そこで、広重は得意の風景画を描いていこうと決心。
葛飾北斎の影響もあり、すすんで風景画を描くようになります。
35歳のとき。
『東都名所』という10枚の風景画を描いたところ評判に。
広重はこれで自信をつけ、翌年、役人をやめて絵に専念することにします。
様々な浮世絵風景画を描き上げる
絵に専念しようと決心した年。
幕府から朝廷に馬を献上するための記録係として、広重は江戸から京都へ行くことになります。
このとき、東海道にある53個の宿場の風景をスケッチ。
翌年。
スケッチをもとにして、『東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)』が版画に刷られて発売開始。
おだやかな詩情をたたえた絵は、人々に歓迎され、広重は風景画家として広く知られるようになりました。
その後、広重は『京都名所』『近江八景』『木曽海道六十九次』などの風景画を描き上げます。
60歳になってからも118枚の大作『名所江戸百景』を描きましたが、61歳でその一生に幕を閉じました。