葛飾北斎 かつしか ほくさい (1760-1849)
1760年。
葛飾北斎は江戸で誕生。
早くに両親をなくし、幕府の鏡師である中島家の養子となります。
しかし、家の仕事に馴染めなかった北斎は、貸本屋の店員となり店の本を読みながら勉強しました。
14歳のころ。
絵が好きだった北斎は、木版彫刻師(ちょうこくし)の弟子になります。
しかし、他人の絵を彫る仕事より、自分で絵を描きたいと思うようになり、5年ほどで彫師の仕事を辞めてしまいます。
1778年。
絵師になるため仕事をやめた北斎。
このころ一流の浮世絵師だった勝川春章に弟子入りし、本格的に絵の勉強を始めました。
浮世絵師として出発した北斎は、メキメキ上達。
歌舞伎役者や相撲の絵、美人画などを描いて評判となります。
しばらくすると、北斎は勝川派だけではなく、こっそり狩野派も学ぶように。
そのため、先生であった勝川春章が亡くなると、北斎は兄弟子たちから批判を受け、勝川派から破門されてしまいます。
独立して新しい浮世絵を誕生させる
川勝派を追い出された北斎。
本格的に狩野派や土佐派など、他流派の日本画を学ぶようになり、さらに西洋画も学び始めます。
独立した北斎は本のさし絵も描くようになりました。
やがて、当時の大作家、滝沢馬琴の『椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)』のさし絵を描くと、それが評判に!
つづいて、さまざまな人物をスケッチした『北斎漫画』も評判になります。
60歳になった北斎。
このころは、何度も旅に出て、風景を描きます。
70歳ころ。
ついに、各地の風景を描いた『富嶽三十六景(ふがくさんじゅうろっけい)』が完成!!
これには、北斎が学んできた様々な画法が含まれ、大胆な構図と色彩に人々は驚きました。
この作品で、北斎の名声は高まりましたが、北斎の情熱はますます強くなっていきます。
75歳。
画狂老人と称して、歴史画や妖怪画などの新しい分野に取り組みます。
しかし、1849年。
90歳になった北斎は病気になり、「あと5年生きられたら本当の絵が描けるのに・・・」と言い残して、その一生を終えました。