<出典:wikipedia>
杉田玄白 すぎたげんぱく (1733~1817)
1733年。
杉田玄白は、小浜藩(福井県)の藩医の子どもとして誕生。
8代将軍徳川吉宗による”享保の改革”がおこなわれていました。
15歳になった杉田玄白。
父のあとを継ぐため、江戸を出て医学の勉強を始めます。
そのころ、京都の山脇東洋(やまわきとうよう)という医者が、人間の解剖をして『蔵志』という本を出しました。
簡単な図解でしたが、これを見た玄白は、
「いつか自分も解剖した様子を見たい」
と思うようになりました。
1771年。
ふとしたことから、オランダの医学書『ターヘル・タナトミア』を入手。
オランダ語は読めませんでしたが、載っていた解剖図に驚きます。
今まで見ていた中国の解剖図とは全く違ったのです。
そして、この解剖図が正しいものかどうか確かめたいという思いが強くなっていきます。
玄白が『ターヘル・タナトミア』を入手した年。
ちょうど、江戸千住の小塚原で死体の解剖がありました。
そこで、玄白は中津藩の医者である前野良沢(まえのりょうたく)たちと、小塚原へ出かけることにします。
良沢に会った玄白。
驚いたことに、彼も同じ本を手にしていました。
そして、実際に目の前で解剖された人体を見ると、『ターヘル・アナトミア』に載っている図とピッタリ一致。
玄白たちは、
「これまで身体の内部のことも知らないで病気を治そうとしていたのか・・・。」
とショックを受け、すぐにこの本を翻訳しようと話し合います。
『解体新書』を出す
翻訳を決意して玄白たち。
しかし、前野良沢がほんの少しオランダ語を知っている程度で、他は誰も知りません。
しかも、満足な辞書もないため、翻訳は難航します。
それでも、「日本中の医者たちの役に立つ」と信じていた玄白たちは、月に数回集まって、少しずつ翻訳を進めていきます。
翻訳を初めて3年。
1774年についに翻訳完了!!
『ターヘル・アナトミア』は『解体新書』と名付けられて出版されました。
翻訳を書き直した回数はなんと11回にも及びました。
『解体新書』が出版されると、今までの医学の誤りがあらわになり、正されていきます。
また、これをきっかけに、蘭学が発展していくことになります。
杉田玄白の名前は広く知られるようになり、玄白の病院は大繁盛。
大槻玄沢(おおつきげんたく)など、多くの弟子も育てるようになります。
1815年。
翻訳の大変さや蘭学の発達を思い出して『蘭学事始』を書き残した玄白は、1817年に息を引き取ります。