<出典:wikipedia>
近松門左衛門 ちかまつもんざえもん (1653~1724)
1653年。
近松門左衛門は、越前国(福井県)吉江藩の武士の子として生まれました。
門左衛門が15歳のころ。
父が浪人になったため、京都に移ってきます。
京都に移った門左衛門。
貴族である一条氏に仕えることになり、一条氏のもとで中国や日本の古い本を勉強することになります。
20歳の時。
一条氏が亡くなってしまったため、近江国(滋賀県)の近松寺(きんしょうじ)に身を寄せることになりますが、門左衛門はここでも勉強を続けました。
そして、劇作者になろうと決心して京都に戻ってきます。
劇作者として生活する
5代将軍徳川綱吉のころは、政治も安定。
そのため、京都や大阪を中心に元禄文化が栄えていました。
特に民衆の間では、三味線に合わせて物語を語る浄瑠璃(じょうるり)や、歌舞伎が人気を集めます。
京都に戻った門左衛門は、歌舞伎役者の坂田藤十郎と知り合うと、藤十郎のために多くの歌舞伎の台本を書きました。
こうして、劇作者として出発した門左衛門。
やがて、人形浄瑠璃師のもとで、浄瑠璃を学び、浄瑠璃作者としてもデビュー。
大阪の竹本座の最初の講演で、竹本義太夫(たけもとぎだゆう)が語って評判となります。
1703年。
竹本座で「曽根崎心中(そねざきしんじゅう)」が上演されると、爆発的な人気を獲得。
門左衛門の浄瑠璃作者としての地位が確立します。
「曽根崎心中」は本当にあった心中事件をもとにしており、身分制度や道徳にしばられながらも愛をつらぬいて死を選ぶ男女の尊さと悲しさを描いた作品でした。
これをきっかけに、竹本座の専属作者となった門左衛門。
「心中天網島(しんじゅうてんのあみじま)」など町民の世話物のほか、歴史の題材をとった時代物など多くの作品を書きました。
なかでも、中国の出来事をもとにした「国性爺合戦(こくせんやかっせん)」は時代物の最高傑作。
連続17ヶ月の上演記録となります。
門左衛門が美しく語る心中物語。
これに影響されたためか、このころ大阪中心に心中が増えてきます。
そのため、幕府は心中物の上演と出版を禁止。
禁止令が出された翌年、門左衛門はその生涯を終えました。