<出典:wikipedia>
徳川綱吉 とくがわ つなよし(1646~1709)
1646年。
徳川綱吉は3代目将軍・徳川家光の子として誕生。
16歳の時に上野国(群馬県)館林の城主になります。
やがて、兄である4代目将軍家綱の養子となり、1680年に5代目将軍となりました。
将軍となった綱吉は、政治の引き締めを実行。
堀田正俊(まさとし)を大老にすると、良い悪いをはっきりさせ、不正を行った大名を厳しく処分します。
また、綱吉は学問を学ぶことを奨励。
湯島に孔子をまつる聖堂を建てると、そこに学問所を作り儒学を教えます。
ここでは、綱吉自身が講義をすることもありました。
“悪政”と呼ばれた綱吉の政治
1684年。
堀田正俊が江戸城中で殺されてしまいます。
そこで、綱吉は柳沢吉保を側用人として採用。
吉保に政治を任せるようになります。
また、綱吉は、仏教を深く信じていたため、護国寺など多くの寺を作ったり修理したりしました。
しかし、これにより財政が苦しくなっていきます。
1685年。
生き物を大切にするよう、「生類憐みの令」を制定。
綱吉が戌年生まれだったため、特に犬が大切にされます。
民衆はこの政策に対して綱吉を「犬公方(いぬくぼう)」といって非難しますが、この法律により戦国時代の殺伐とした雰囲気が一掃されたともいわれます。
綱吉の贅沢な生活や寺の建設で、徐々に幕府は財政が悪化。
さらに、鉱山からの金の産出量減少、貿易利益の減少、江戸の大火事など、財政悪化の要因が重なります。
そこで綱吉は、金貨に含まれる金の量を減らして、貨幣の量を増やします。
これにより、一時的に財政が回復。
しかし、質の悪い金貨が増えると、貨幣の価値が下落し、物価が上がって、人々の暮らしが苦しくなります。
1709年。
徳川綱吉が亡くなると、「生類憐みの令」や貨幣政策で苦しめられた人々は、これを知って喜んだといわれています。
ただ、8代目将軍の徳川吉宗は、“天和の治”をおこなった綱吉に対して敬愛の念を抱いており、改革の中にもその影響がみられることから、”悪政”の評判は実態とは違ったのとも考えられています。
ちなみに綱吉の時代には商業が盛んになり、大阪や江戸以外の城下町が繁栄。
京都や大阪の町民の間では、元禄文化が栄えました。