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天草四郎時貞 あまくさしろうときさだ (1621~1638)
1549年。
ザビエルによりキリスト教が日本に伝えられると、九州を中心に広まります。
1587年。
ポルトガル人が日本人を奴隷として輸出していることを知った豊臣秀吉は、宣教師追放の命令を出します。
しかし、貿易を行っていたため、キリスト教はそのあとも広まっていき、大名の中にも信者になる人が出てきました。
1613年。
はじめは貿易のためにキリスト教を認めていた徳川家康も、キリスト教を禁止。
3代目将軍の徳川家光の時代になると、取り締まりが強化されます。
一方、天草地方(熊本県)と島原地方(長崎県)では、キリスト教の大名が領地を支配していました。
そのため、キリスト教信者が多くいました。
しかし、新しい領主が幕府の方針を守ってキリスト教を禁止。
信仰を捨てない人に対し、熱湯の中に入れたり火あぶりしたりして取り締まりを行います。
また、当時、この地方では農作物の不作が続いていましたが、新しい領主は年貢を厳しく取り立てました。
これにより、農民はますますキリスト教に救いを求めて団結を強めていきました。
1637年。
重い年貢とキリスト教の厳しい取り締まりに我慢できなくなった島原の農民が一揆をおこします。
このとき、先頭に立ったのが少年であった天草四郎時貞でした。
天の使い 天草四郎
1621年。
天草四郎は大名・小西行長の家来の益田家の子として誕生。
本名を益田時貞といいました。
小西行長はキリスト教徒で、時貞も小さいときにキリスト教に入信しました。
1637年。
島原と天草で一揆が起こると、当時16歳だった時貞は「救いの神の子」として崇められるようになります。
2つの一揆はやがて合流し、天草四郎時貞を総大将として3万7000人もの人が原城跡に立てこもります。
これに対し、江戸幕府は板倉重昌(いたくらしげまさ)を派遣しますが敗北。
ついで、老中の松平信綱を送り、西国の大名にも出兵を命じます。
信綱は12万の大軍で城を攻め、ようやく一揆を抑えます。
天草四郎時貞をはじめ、立てこもった農民たちはほとんど討ち死に。
残ったものも処刑されました。
この一揆で、幕府はますますキリスト教を警戒。
鎖国体制を完成させ、マリアの像を踏ませる”ふみ絵”を行いキリスト教徒を排除するようになりました。