<出典:wikipedia>
徳川家康 とくがわいえやす
(1542~1616)
1542年。
徳川家康は、三河国(愛知県)の大名である松平家の子どもとして誕生しました。
家康は小さいころは竹千代と呼ばれていました。
また、父親が今川氏の助けを受けていたため、幼少期の11年間を今川氏の人質として静岡市で過ごしました。
1560年。
今川義元が桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)で敗れると、家康は三河の岡崎に帰ることとなりました。
地元に帰った家康は、やがて三河を統一。
織田信長と手を結んで、次第に勢力を拡大していきました。
本能寺の変で信長が死ぬと、豊臣秀吉がその後継者になりました。
これは家康にとっても天下統一のチャンスでした。
そのため、一度は秀吉と対立して争うこととなりました。
しかし、お互いに戦争の天才なので無理な戦はせず、決着がつきません。
しばらくして、分が悪くなった家康は、秀吉の求めに応じて天下統一の仕事を助けることにしました。
ちなみに、このころ、家康は三河を中心に5ヶ国を支配する大名になっており、「海道一の弓取り」と呼ばれていました。
1590年。
秀吉が小田原城の北条氏を倒すと、家康は関東に移ることを命じられました。
家康は江戸を本拠地と定め、秀吉に協力しながら力を蓄えていきました。
秀吉が死ぬと、家康に再び天下一となるチャンス到来。
豊臣方の大名と対立し、1600年に関ヶ原の戦いが起こりました。
東軍の家康に対して、西軍の中心は石田三成。
「天下分け目の戦い」に勝利した家康は、全国の支配権を握りました。
江戸幕府を開く
1603年。
家康は征夷大将軍に任命されると、江戸幕府を開きました。
1605年。
江戸幕府を開いてすぐに、家康は将軍職を息子の秀忠(ひでただ)に譲ります。
これは、将軍職は代々徳川家が継いでいくという慣例を作るためで、実際には家康が政治を行いました。
当時、全国には約200人もの大名がいて、それぞれが領地を治めていました。
家康はこの大名を3つに分けました。
1、徳川一族の”親藩(しんぱん)”
2、関ヶ原の戦い以前から従っていた”譜代(ふだい)”
3、関ヶ原の戦いののちに従った”外様(とざま)”
外様大名を江戸から遠いところに配置することで、長年協力してくれた人との差別化をはかりました。
さらに家康は、大名を取り締まるための法律”武家諸法度”を制定。
これに違反するものを処罰しました。
また、大名が反抗する力をつけないよう、土木工事などを命じて大金を使わせました。
こうして約260年に渡る江戸時代の基礎ができあがったのです。
1615年。
豊臣秀吉の子である秀頼(ひでより)を警戒していた家康は、口実を作って豊臣氏を滅ぼしました。
これにより、徳川氏に対抗できる勢力がなくなり、1616年。
家康は安心して、その一生に幕を下ろしました。