明治二年――桜の花びらが散ってしまった頃
日野宿本陣をひとりの物乞いが訪ねてきました。
本陣を取りまとめる佐藤彦五郎に、物乞いは写真と書付を差し出します。
そこには、佐藤彦五郎にとっては義理の弟である土方歳三の姿があり、書付にはこの物乞いの面倒をみてほしいと記されていました。
物乞いの名は、市村鉄之助。
箱館で土方歳三の小姓をしていた人物でした。
鉄之助は箱館戦争が激しくなる前に、実家への言付けを頼まれて箱館を脱出してきたのです。
新選組副長・土方歳三の小姓として知られる市村鉄之助。
時代小説、新選組を題材にしたコミックでも、ときに主役として描かれることもありますが、実際にどのような経緯で新選組に入隊し、役目を果たしてからはどうしたのかということはあまり知られていません。
そこで今回は、市村鉄之助の人物像をご紹介します。
市村鉄之助は実兄よりも土方歳三を選んだ
慶応3年。
世間が大政奉還の話題で持ち切りとなり、新選組が不動堂村に屯所を移転し、油小路の変によって御陵衛士が壊滅となった年。
市村鉄之助が新選組に入隊したのは、そんな時代が大きく移り変わっているときでした。
市村鉄之助は美濃大垣藩の出身で、実兄の辰之助と一緒に新選組に身を置くことになったときは14歳でした。
両丁(局長・近藤、副長・土方)の小姓(世話役)の仕事を与えられて、近藤と土方のいうことをよくきいて働いていたといいます。
しかし、入隊した翌年には鳥羽・伏見の戦いがはじまり、新選組は不動堂村の屯所を離れて旧幕府軍に従軍しなければならなくなりました。
この鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が惨敗したことから、新選組では脱走者が相次ぎました。
市村鉄之助の兄・辰之助もそのひとりです。
脱走した辰之助は、そのまま故郷の大垣へと戻ったといいます。
会津での激戦から函館上陸にいたるまで、これまでと変わらず市村鉄之助は土方歳三の小姓として働きました。
市村鉄之助は実兄の辰之助ではなく、土方歳三と討ち死にする覚悟を決めていたのです。
もともと小姓は他にも複数人いましたが、箱館に上陸する頃には市村鉄之助だけになってしまっていました。
土方歳三は市村鉄之助を寵愛していた
「すこぶる勝気、性これまた怜悧」
新選組副長の小姓として仕えた市村鉄之助のことを、このように評した土方歳三。
新選組の拠点が京都にあった頃から、他にも小姓がいたのにも関わらず、土方歳三はとりわけて市村鉄之助のことを気に入っていたといいます。
新選組の状況が厳しくとも、変わらずに側にいた市村鉄之助の存在は、土方歳三にとっては特別なものであったに違いありません。
ある日、箱館へ入港した外国船が数日のうちに横浜に出航すると知った土方歳三は、すぐに乗船の手配をして市村鉄之助を箱館から脱出させました。
この出来事は、「実家に遺品を届けてもらう」という口実で市村鉄之助を脱出させたのだろう、と見られています。
箱館で討ち死にをする覚悟でいた市村鉄之助は、しぶしぶ箱館を後にします。
土方歳三は船長にも口利きをしてくれていたようで、船でもずいぶんと親切にされたといいます。
また、横浜から日野にいたるまでの路銀にも配慮がありました。
こうして日野宿本陣に辿り着いた市村鉄之助は、佐藤彦五郎のもとで3年ばかりかくまってもらった後、郷里の大垣へと戻りました。
市村鉄之助のその後は諸説あり
日野宿本陣をあとにしてからの市村鉄之助については諸説あります。
中でももっともインパクトのあるものは、桐野利秋の馬丁になったというものでしょう。
政府に敵対していた西郷隆盛を狙い、薩摩に潜入していたところ。
市村鉄之助は側近であった桐野利秋に見破られてしまいます。
ですが、市村鉄之助はその人柄にほれ込み、西南戦争まで付き従い討ち死にをしたといわれているのです。
これは、なかなかできすぎたエピソードでもあり、真相のほどは定かではありませんが。
とりあえず、一度は大垣で実兄と再会し、その土地に兄弟が並んで眠っていることは分かっています。
このことから、そのまま大垣で亡くなったという説もあります。