<出典:wikipedia>
小松姫は、徳川四天王に数えられる武将・本多忠勝の娘です。
彼女は忠勝の娘であり、家康の養女――そして、真田信之の妻でもありました。
今回は「小松がいれば、真田家は安泰だ」とまで評された小松姫を紹介します。
本多忠勝の娘
本多忠勝は、合戦でかすり傷一つ負わなかったという逸話もある豪傑。
1573年に忠勝の長女として生まれた小松姫は、14歳で徳川家康の養女になります。
そして豊臣秀吉の紹介で、上州(現在の群馬県)沼田城主・真田信之のもとに嫁ぎます。
天下分け目の関ヶ原!どちらに味方する?
1600年、関が原の戦い。
徳川家康の上杉討伐の号令により、真田軍は会津・宇都宮城を目指して進軍していました。
しかし、犬伏(現在の栃木県・佐野)で石田三成からの密書が届きます。
関ヶ原の戦いで、ぜひ味方してほしいという内容です。
……この時、真田家はどちらに味方するべきか迷います。
・真田家の父・昌幸の妻は、石田三成の妻と姉妹同士
・長男・信之の妻である小松姫は、徳川四天王の一人・本多忠勝の娘
・次男・信繁の妻は、石田三成の親友・大谷吉継の娘
考えた結果、真田家は、昌幸と信繁が西軍に味方し、信之は東軍に味方することになりました。
実際は「どちらが勝っても家名が残せるように」という結果だと思われますが、関係性を見ると、妻たちの縁で分かれたようにも受け取れます。
舅殿でも敵は敵!!
西軍に味方することに決めた昌幸と信繁の軍勢は、信之の居城・沼田にまでやってきました。
そして、留守中の信之に代わって城を守る小松姫に、昌幸が使者を送ってきます。
内容は「久しぶりに孫たちに会いたいから、入城させてほしい」というもの。
小松姫はそれを読むと、鎧姿に薙刀を持って櫓に上がり、「私は今、夫に代わって城を守る身です。たとえ舅殿( しゅうとどの ) でも、城主の留守中に城内へ入れるわけにはいきません」と昌幸たちを断固拒否します。
しかし、小松姫は入城こそ拒否したものの、昌幸たちのために近くの寺を宿として用意し、そこで子供たちにも会わせるなど、できる限りのことをしました。
この時、昌幸たちの世話をしたのは女性ばかり。
男性は昌幸たちに攻撃された場合のため、持ち場についていました。
昌幸はこれを受けて、「さすがは本多忠勝の娘だ。武士の妻とはこうあるべき。小松がいれば、真田家は安泰だ」と部下に言ったそうです。
真田家の灯火
関ヶ原の戦いの後、九度山へ追いやられてしまった昌幸たちに、小松姫は手紙を出しては気遣い、お金や食料などを送って生活を助けました。
その豪気で真田家を引っ張った小松姫ですが、江戸から草津に療養へ向かっていた途中で亡くなります。
夫・信之は、「我が家の灯火が消えた」と嘆いたそうです。