<出典:ボケプリ>
田沼意次 たぬまおきつぐ (1719~1788)
1719年。
田沼意次は田沼家の子として誕生。
父は紀伊藩(和歌山県)の足軽で身分は低かったですが、8代将軍になった徳川吉宗とともに江戸に出てきました。
田沼意次は16歳のとき。
つぎの将軍となる徳川家重(いえしげ)のそばに仕えることとなり、7年後、1万石の大名となりました。
家重の子である徳川家治が10代将軍になると、家治にも仕えるようになり、田沼意次は静岡県に城を築きます。
1772年。
老中となって幕府の実権を握ると、石高も増えていき5万7000石になります。
田沼意次の政策
田沼意次が老中になったころ。
幕府の財政が苦しくなっていました。
年貢米ではこれ以上の収入は得られないと考えた田沼は、商業に注目。
財政を立て直すため、商業から税を取ろうと考えます。
そこで、商人や手工業者に株仲間という特権を与えると、営業税をかけます。
さらに、商人の力を借りて新田も開発。
ロシア人と貿易するために蝦夷地の調査も行います。
このような田沼の積極的な政策は、学問にも影響。
前田良太と杉田玄白による「解体新書」の出版も、この影響でした。
1782年。
東北地方が冷害に見舞われると、翌年、浅間山が噴火。
天明の大飢饉と呼ばれる全国的な飢饉が発生します。
すると、米の値段が上がり、百姓一揆や打ちこわしが各地で発生するようになります。
このような中で、田沼意次の子である田沼意知が江戸城内で殺されてしまいます。
田沼意次の政治に不満を持っていた人々は、この事件を「世直し大明神」ともてはやします。
これをきっかけに、田沼の勢力は衰え、1786年。
将軍、徳川家治が亡くなる直前に老中をやめさせられ、領地も1万石に減らされてしまいます。
そして、1788年。
田沼意次は失意のうちに亡くなりました。