<出典:wikipedia>
松平定信 まつだいら さだのぶ(1758~1829)
1758年。
松平定信は田安家の子として江戸で誕生。
父の田安宗武(たやすむねたけ)は、8代将軍徳川吉宗の次男でした。
松平定信は小さいころから学問や読書を好み、17歳の時に松平家の養子になります。
そして、1783年。
25歳の時に白河藩(福島県)の藩主となります。
このころ、東北地方を中心に天明の大飢饉が発生していました。
しかし、定信は藩内に一人の死者も出さずに、農村の立て直しに成功。
名君として知られるようになります。
飢饉の影響で各地域では百姓一揆や打ちこわしが多発していました。
1787年。
こうした状況の中、松平定信が幕府の老中に。
11代将軍の徳川家斉を助けて、”寛政の改革”をはじめます。
寛政の改革
このころ、生活が苦しくなった武士たちは、商人から借金をしていました。
そこで、定信は質素倹約を命じるとともに、借金の一部を返さなくても良い「棄捐令(きえんれい)」を出しました。
また、農村部は天明の大飢饉で荒れていました。
定信はこれを回復するために、江戸への出稼ぎを禁止。
農民を農村に帰して、不作に備えて準備させます。
さらに、各地の大名に米を蓄えさせたり、町ごとにお金を積み立てたりさせます。
こうして、次の飢饉に備え江戸の立て直しをはかります。
ちなみに、江戸にいる浮浪者に対しては、石川島に集め職業指導。
仕事に就かせるようにしました。
厳しい取り締まり
武士には学問や武芸をすすめました。
特に朱子学を重視し、幕府の学校”湯島聖堂(ゆしませいどう)”では、朱子学以外の儒学を禁止しました。
また、生活を乱す本や、政治を批判する本の出版を禁止。
山東京伝(さんとうきょうでん)は生活を乱す作品を出版したとして、
林子平(はやししへい)は幕府の鎖国を批判したという理由で取り締まります。
定信の厳しい改革に、人々は不満をつのらせるようになります。
1793年。
松平定信は在職6年で突然、老中をやめさせられてしまいます。
その後、定信は白河藩主に戻り政治や学問にはげみ、1812年に白河藩主をやめ、1829年に亡くなりました。