<出典:wikipedia>
本居宣長 もとおりのりなが (1730~1801)
1730年。
本居宣長は、伊勢国松坂(三重県)の木綿問屋として誕生。
父が亡くなると商売がうまくいかなくなり、宣長は商売の見習いに出るようになります。
1753年。
23歳になった宣長は、母の勧めで医者になることにし、京都へ出ます。
そして、医学を学びながら儒学を習いはじめます。
そんな中、契沖(けいちゅう)が書いた和歌に関する書物を読んだ信長。
これにより、国学に強い関心を持つようになります。
京都で5年間勉強した本居宣長。
松坂へ帰り、医者として開業します。
医者の仕事をしながら、好きな国学を勉強する日々。
賀茂真淵(かものまぶち)の書物に出会うと、その後ひそかに真淵を自分の先生と考えるようになります。
賀茂真淵に出会う
医者の仕事をしながら国学の研究を続けて、さらに5年。
本居宣長が34歳の時。
国家の大家として有名な賀茂真淵が、宣長のいる松坂に立ち寄ります。
これを知った宣長は、真淵に会いに宿屋を訪ねます。
初めて会った二人は、夜のふけるのも忘れ、『万葉集』など日本の古くからの名著について熱心に語り合いました。
このとき、真淵は
「古事記の研究こそが国学の基本になる」
と考えていました。
しかし、真淵自身はすでに高齢。
今から始めても完成にはいたりません。
そこで、若い宣長に古事記を研究するよう勧めました。
『古事記』の研究
賀茂真淵と一晩中話し合った宣長は、『古事記』の研究を始めます。
そして、1798年。
34年の歳月をかけてついに『古事記』の解説書、『古事記伝』44巻を完成させ、国学を大成しました。
宣長は古事記の研究を通じて、日本人が昔から持っている考え方を“やまとごころ”と呼びました。
そして、この中に、仏教など外国からの考えに影響を受けない、純粋な日本人本来の考え方があると説きました。
宣長は、『源氏物語』の研究もしていました。
これまでの儒教的・仏教的な考え方を取り除き、物語の本質を”もののあわれ”にあるとしました。
このほかにも、各方面にわたって様々な研究をした本居宣長。
約270冊もの本を書いて、1801年に亡くなりました。