<出典:wikipedia>
新井白石 あらいはくせき (1657~1725)
17世紀中ごろ。
新井白石は、上総国(千葉県)の武士の子として、生まれました。
子どものころから字を覚えたため、父の仕えていた藩主は白石を気に入ります。
1678年。
新井白石が21歳になったとき、父が浪人になってしまいます。
そこで、新井白石も寺子屋を開き、町人の子どもたちに読み書きを教え、家計を助けました。
白石は、子供のころから独学で儒学を学習。
30歳をすぎてから、朱子学者・木下順庵(きのしたじゅんあん)の弟子になりました。
学問が得意だった白石は、やがて弟子の中でトップに。
順庵の勧めで、徳川綱豊(つなとよ)に仕えることとなりました。
幕府の政治の相談役に!!
1709年。
綱豊が6代目将軍・徳川家宣(いえのぶ)になると、新井白石も幕府に仕えることに!!
将軍の側近の学者として、政治の相談も受けるようになります。
朱子学を学んだ白石は、礼儀や身分の上下を重視し、これまでの政治を正して、将軍の権力を高めます。
また、物価を安定させ財政を立て直すために、質の落ちた貨幣をもとの高品質な貨幣に戻します。
その他にも、長崎での貿易を制限。
金・銀の流出を防ぎます。
朝鮮からの使いを迎える費用が高すぎたため、これも節約させます。
しかし、家宣が将軍になってから、わずか3年後。
家宣が死んでしまいます。
あとを継いだ7代目将軍もわずか8歳で死亡。
こうして、1716年。
徳川吉宗(よしむね)が8代将軍になると、新井白石は政治から遠ざけられてしまいました。
学問の生活に戻る
政治から離れた新井白石。
再び、学問の生活に戻ります。
そして、自分の生い立ちを記した「折たく柴の記」などの本を書き、学者としても一流として認められました。
白石は歴史にも目を向け、多くの歴史書を書きます。
代表作には、武家政治の歴史をまとめた「読史余論(とくしよろん)」や、大名の歴史をまとめた「藩翰譜(はんかんふ)」などがあります。
鎖国の中、海外にも目を向けます。
キリスト教を広めるため密入国して捕えられたイタリア人宣教師”シドッチ”。
白石はシドッチから海外の様子を聞き出すと、「西洋紀聞(せいようきぶん)」という本にまとめます。
この本は、鎖国時代の日本において、洋学を学ぶための貴重な書物として活躍しました。