<出典:wikipedia>
徳川慶喜 とくがわよしのぶ (1837-1913)
1837年。
徳川慶喜は、水戸藩の藩主・徳川斉昭(なりあき)の子として生まれ、七郎麿(しちろうまろ)と名づけられました。
慶喜は、藩の学校で厳しい教育をうけ、兄弟の中で最も優れた子として斉昭に期待されていました。
11歳の時。
慶喜は徳川一族の一橋家の養子となります。
その後、13代将軍・家定の跡継ぎ問題が起こり、慶喜も跡継ぎ候補になります。
しかし、将軍跡継ぎ問題は、アメリカとの条約問題が絡み複雑に。
1858年。
井伊直弼が大老になると、アメリカと修好通商条約が結ばれ、将軍の跡継ぎが徳川慶福(よしとみ)に決定します。
慶喜はこれに反対しますが、父の斉昭とともに幕府から退けられてしまいます。
徳川慶喜が江戸幕府最後の将軍になる
1860年。
桜田門外の変で井伊直弼が殺されてしまいます。
これにより、慶喜はふたたび幕府に戻ることになります。
1862年。
慶喜は将軍後見職につくと、幕府と朝廷と大名のあいだに入って、将軍を助け、政治を行うことになります。
1866年。
14代将軍徳川家茂が大阪で病死。
慶喜が15代将軍になります。
将軍となった慶喜は、フランス公使ロッシュの意見を聞いて、幕府の立て直しを図ることに。
幕府の力を取り戻すため、フランスから軍人を招き、幕府軍を洋式の軍隊に作り変えます。
ほかにも、さまざまな改革に尽力を尽くしますが、幕府の力を回復させることはできませんでした。
薩摩藩と長州藩が手を結んでから、幕府を倒そうとする動きは激しさを増していました。
このような動きを察知した慶喜。
山内豊信(やまのうちとよしげ)のすすめもあり、政権を朝廷に返すことにしました。
政権を返しても徳川一族はまだまだ強大な力を持っています。
そのため、慶喜は朝廷を中心にしながら自分が大名の意見をまとめて政治を行うつもりでした。
これに対し、倒幕派は王政復古の大号令を宣言。
慶喜の官職や領地の一部を取り上げてしまいます。
これに怒った、幕府派の武士たち。
京都の鳥羽・伏見で新政府と戦い始めます。
しかし、新政府軍に攻められ江戸に逃げ込むと、慶喜は戦わずに江戸城を明け渡します。
こうして、慶喜は政治の場から撤退し、静岡に移って30年間、静かに生活を送ります。
ちなみに、当時、イギリスとフランスが勢力争いをしていました。
イギリスは薩摩・長州藩を支援。
フランスは幕府を支援していました。
なので、慶喜が徹底的に戦争することを選んでいたら、日本国内で「イギリスvsフランス」の代理戦争が行われることとなりました。
慶喜はこの状況を理解していたため素直に江戸城を明け渡し、それを分かっていた新政府軍は慶喜に何の処罰も下さなかったのだと考えられます。