徳川家光(江戸時代)

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<出典:wikipedia

徳川家光 とくがわいえみつ (1604~1651)

 

1604年。

徳川家光は、2代目将軍・徳川秀忠の子として誕生。

兄が幼くして亡くなったため、祖父家康の幼名である竹千代と名付けられ、将軍の跡継ぎとして期待されるようになります。

しかし、父・秀忠は弟の国松を愛していたため、家光は将軍になれない可能性がありました。

そこで心配した乳母の春日局(かすがのつぼね)は徳川家康に訴えかけ、これにより家光が3代目将軍になることが決まります。

 

1623年。

徳川家光が江戸幕府3代目将軍になり政治を開始。

自分の近くに優れた家来を集め、”老中”を中心とした政治の仕組みを整えます。

1635年。

家光は参勤交代を制定。

大名に江戸と領地を往復させることで、お金を使わせて、幕府に反抗する力をつけさせないようにしました。

また、当時の武士の生活は農民の納める年貢によって支えられていました。

そこで、1649年。

家光は年貢が確実に取れるように”慶安のお触書”を出し、農民の日常生活を細かく規定しました。

鎖国を完成させる

江戸幕府では、はじめ貿易のためにキリスト教を認めていました。

しかし、信者が増えてくると危機感をつのらせます。

・信者が団結して幕府に反抗する
・スペインとポルトガルが宣教師を使って日本を植民地化する
・貿易が盛んになって九州の大名が力をつけてしまう

これらのことを防ぐため、1613年。

幕府はキリスト教禁止

1635年には、日本人が海外に行くことと帰国することを禁止しました。

こうした中、1637年。

重い年貢の取立てと、キリスト教に対する取り締まりに抗議して、九州で反乱が起きます。(島原の乱)

これに驚いた幕府。

キリスト教の禁止をいっそう強化します。

・ポルトガル船の来航禁止
・オランダの商館を長崎の出島に移設
・キリスト教を広める恐れがない、オランダと中国のみ貿易を許可

こうして、鎖国体制を作り上げた幕府は、外国との貿易を独占し、いっそう力をつけました。

 

1615年。

幕府の基礎を確立した家光は、胸の病気が原因で亡くなりました。

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