<出典:wikipedia>
徳川吉宗 とくがわよしむね (1684~1751)
1684年。
徳川吉宗は、御三家のひとつ紀伊国(和歌山県)徳川家の子として生まれます。
吉宗は14歳で越前国(福井県)鯖江の大名となっていましたが、2人の兄が死んだため22歳のとき紀伊55万石の藩主となりました。
このころ紀伊藩は、災害などで苦しい財政が続いていました。
そこで、藩主となった吉宗は倹約をすすめ、新田を開発。
藩の財政を立て直します。
1716年。
江戸幕府7代将軍の家継(いえつぐ)が亡くなります。
御三家である吉宗は、本来、将軍の跡継ぎには遠い存在。
しかし吉宗は、大名におされ幸運にも8代目将軍となりました。
享保の改革を始める
吉宗が将軍になったころ。
武士の生活は乱れ、幕府の財政も悪くなっていました。
そこで「何事も権現さま(家康)のお定めの通り」といって、幕府が成立したころの政治を取り戻そうとします。
・武士に倹約と武芸をすすめる。
・江戸城に目安箱を置き、人々の意見を集める
・米の出来高に関係なく一定量の年貢を納めさせる
・参勤交代の負担を減らす
・新田開発をすすめる
・サツマイモを栽培して飢饉に備える
・産業を発展させる
・裁判を公平に行うための法律「公事方御定書(くじかたおさだめがき)」を作る
・キリスト教に関係ない外国書物は輸入可能に
・米の値段の安定させる
これらの改革により、幕府の収入は増え幕府の財政もかなり良くなります。
しかし、年貢が重くなり、災害も続いたため農村部では百姓一揆が多く発生しました。
1745年。
吉宗は将軍職を退くと、1751年に亡くなりました。