<出典:wikipedia>
勝海舟 かつかいしゅう (1823-1899)
1823年。
勝海舟は江戸の貧しい旗本の子として生まれ、小さいころから剣道に励んで腕を磨きました。
20歳ごろになると、西洋の兵法を勉強しはじめ、オランダ語も学びます。
『ズーフ・ハルマ』というオランダ語の辞典を1年がかりで2部書き写すほどの猛勉強をすると、やがて、自分で蘭学塾を開きました。
1853年。
ペリーが浦賀に来航した時、勝海舟は幕府に海防についての意見書を提出。
これが老中の目にとまり、勝海舟は幕府の海軍教育のために長崎の海軍伝習所に派遣されます。
そして、約5年間。
オランダ人教師から本格的に航海術や砲術を学びました。
1860年。
日米修好通商条約の手続きのため、幕府の使節がアメリカへ向かいました。
勝海舟もその使節に従い、咸臨丸(かんりんまる)艦長として太平洋を横断。
これが、日本人初の太平洋横断となりました。
新しい国づくりを目指す
咸臨丸の成功により勝海舟は出世。
西洋式軍隊制度を取り入れるときなどに重用されます。
1864年。
勝海舟は軍艦奉行になり、神戸に海軍操練所を設立。
ここでは、藩や身分にとらわれず能力のあるものを集めて教育を行いました。
アメリカで様々な経験をした勝海舟は、政治も各藩の話し合いですすたいと考え始めます。
そして、これを西郷隆盛に相談。
しかし、このことを聞いた幕府側はこれを危険思想だと考え、勝海舟をやめさせてしまいます。
1867年。
15代将軍の徳川慶喜が政権を朝廷に返し、江戸幕府が終わります。
しかし、これに反対していた一部の旧幕府軍は抵抗。
新政府軍との戦いが始まり、大軍が江戸に攻め上っていきます。
1868年。
勝海舟はふたたび幕府に呼び戻されます。
そして、江戸城総攻撃の直前、新政府軍の代表である西郷隆盛と会い、江戸城を明け渡すことを約束。江戸の町を戦火から救います。
その後、勝海舟は明治政府にも登用され、参議や海軍卿などの重職に就きました。
しかし、あまり表には出ず、やがて政府を離れます。
政府を離れた後もいろいろな相談を受けますが、文学に親しむ静かな生活を送り、1899年に息を引き取りました。