<出典:wikipedia>
井原西鶴 いはらさいかく (1642~1693)
1642年。
井原西鶴は大阪の裕福な商人の子として誕生。
本名は平山藤吾という名前で、小さいころに父親をなくします。
西鶴は15歳ころから俳句を学び始めると、最初は”滑稽(こっけい)”を主題にした句を詠んでいました。
そして21歳になると、早くも俳句の優劣を判定する俳句の先生となります。
30歳ごろ。
西鶴は、西山宗因という俳句師の弟子となり、”西鶴”と名乗るようになります。
やがて、宗因の弟子を代表する一人となった西鶴。
彼は、一度に続けて多くの句を詠むことが得意で、あるとき一昼夜で1600句も読み上げます。
そして、この記録が破られると、今度は一昼夜に4000句も読み上げました。
1684年。
西鶴は大阪の住吉神社で一昼夜に2万3500句を詠むという大記録を打ち立てます。
この記録は、3.7秒に一句という速さで、まさに神業でした。
しかし、西鶴はすでに俳句だけでは満足できなくなっており、これ以後、小説に力を入れるようになります。
元禄文化を代表する小説家になる
1682年。
西鶴が41歳のときに、師である西山宗因が亡くなります。
この冬、西鶴は最初の小説「好色一代男」を書きました。
この小説は、出版されると大きな評判を呼び、井原西鶴は元禄文化を代表する小説家となります。
このころの大阪は商業の中心地として繁栄していて、西鶴はそこに生きる町民たちの様々な姿を描きました。
代表的な作品には「日本永代蔵(にほんえいたいぐら)」や「世間胸算用(せけんむねざんよう)」があり、世の中の人情や風俗などをありのままに描いた西鶴の小説は浮世草子とよばれました。
約20編の浮世草子を残した西鶴。
1693年。
52歳のときに次の句を詠んで、西鶴は息を引き取りました。
浮世の月 見過ごしにけり 末二年
(人生50年というが、私は2年も余分に生きて人の世を見ることができた)