<出典:wikipedia>
井伊直弼 いいなおすけ (1815-1869)
1815年。
井伊直弼は彦根藩(滋賀県)11代藩主の子どもとして生まれました。
17歳の時に父が亡くなると、兄の直亮(なおあき)が藩主に。
井伊直弼は、城の外に小さな屋敷を与えられて、そこで暮らすようになります。
直弼は、この屋敷を「埋木舎」と名づけ、日々、武芸・学問・茶の湯などに励んで生活していました。
藩主になった兄の直亮には子供がいませんでした。
また、他の兄たちは別の大名の養子になっていました。
そこで、1846年。
直弼は直亮の養子となります。
1850年。
直亮が亡くなると、井伊直弼は36歳で彦根藩主を継ぐことになりました。
井伊直弼が大老になる
1854年。
アメリカと和親条約を結んだ幕府は、貿易をはじめるために通商条約を結ぶように迫られていました。
そこで、老中の堀田正睦は、天皇から条約を結ぶ許可を取ろうとします。
しかし、「外国を打ち払え」という攘夷派の意見により、なかなか許可を貰えません。
このような状況の中、井伊直弼は開国派の大名たちにおされて大老となりました。
大老になった直弼は、朝廷の許しが得られないまま、通商条約を結ぶことを決心。
責任は自分が取ると覚悟を決めます。
こうして、幕府の独断でアメリカと日米修好通商条約を結ぶことになりました。
この条約により、函館・神奈川・新潟・兵庫・長崎の5つの港が開かれ、貿易が開始します。
アメリカが日本と条約を結んだのを見たオランダ・ロシア・イギリス・フランスは同じような内容の条約を要求。
幕府はこれを受諾しました。
安政の大獄!反対派を厳しく処罰
条約問題で混乱しているとき。
同時に、13代将軍・家定の跡継ぎ問題が発生していました。
水戸藩出身の徳川慶喜(よしのぶ)をおす派閥と、紀伊藩藩主の徳川慶福(よしとみ)をおす派閥に分かれて対立したのです。
そこで、井伊直弼は慶福を跡継ぎに決定。
しかし、これにより水戸藩が井伊直弼の敵にまわります。
また、開国に反対する人々も直弼を激しく非難。
幕府の政策を激しく非難する人々に悩まされた井伊直弼。
そこで、反対する大名や藩士を捕え、処罰していきます。
水戸藩に対する処罰は特に厳しく、ほかにも吉田松陰や橋本佐内(さない)などの蘭学者を処罰します。
厳しい処罰を続けた井伊直弼。
それに不満を抱いた水戸藩の浪士たちが、桜田門で襲撃。
1860年に、井伊直弼は殺されてしまいました。