<出典:Early Foreign Visitors to Shizuoka>
マシュー・C・ペリー (1794-1858)
1794年。
マシュー・C・ペリーはアメリカ合衆国東部のロードアイランド州で生まれました。
父も兄も海軍の軍人という、海軍一家。
ペリーも早くから海軍に入り活躍していました。
40歳のころ。
海軍工場に移って、最初の蒸気軍艦フルトン2世号を作り、初代艦長となります。
やがて、海軍工場の長官になったペリーは、蒸気船を取り入れることにつとめ、”蒸気船海軍の父”と呼ばれるようになります。
ペリー。日本へ向かう。
このころ、中国との貿易を盛んにしようと考えていたアメリカは、太平洋を横断するときに寄る港を探していました。
また、北太平洋で活躍していた捕鯨船のためにも、燃料や食料を補給する港が必要でした。
そこで、注目したのが日本。
1852年。
ペリーは大統領から東インド艦隊司令長官に任命され、日本を開国させるように命じられます。
そこで、大西洋・インド洋を超え、7か月もかけて日本にやってきます。
ペリーは4隻の軍艦を率いて浦賀(神奈川県)に到着すると、幕府に大統領からの手紙を渡し、開国を求めます。
しかし、日本は返事をすることができず、回答を翌年まで延ばしたため、ペリーはいったん引き上げます。
日米和親条約を結ぶ
回答を延ばした老中・安部正弘は、朝廷に報告し大名たちに意見を聞くことに。
しかし、開国派と鎖国派に分かれ幕府の考えはまとまりません。
1854年。
ペリーは7隻の軍艦を率いて来航。
軍艦の大砲を江戸に向けて開国を迫ります。
これにより、安部正弘は条約を結ぶことを決意。
「日米和親条約」を結びました。
・下田と函館の2港を開くこと
・アメリカ戦に石炭・食料・水などをあたえること
・下田にアメリカの役人をおくこと
これらの内容で条約を結ぶことに成功したペリー。
日本から帰ると、その記録を「日本遠征記」として書き残しました。