<出典:wikipedia>
(<<前編はこちら)
それまでのベアテの時間が実力を培うためのものだったとすれば、憲法起草メンバーとして抜擢された以降は、その実力発揮の時でした。
機転の利くベアテは都内の多くの図書館からさまざまな法律関係の書籍を借り出しました。
そして、それらを含めた大量の資料を元にして憲法起草チームが動き始めました。
ベアテが担当したのは、日本国憲法の「社会保障」と「女性の権利」についての条項。
彼女が参考にした他国の憲法はドイツのワイマール憲法、アメリカ合衆国憲法、フィンランド憲法、ソビエト社会主義共和国連邦憲法でした。
彼女は女性の権利についての条項を細かく起草しました。
それには、夫と同等に扱われない妻たちを見てきた彼女の日本での見聞も生かされていました。
折りにつけ日本女性の地位の低さについて語っていた日本でのベアテ一家のお手伝いさん・小柴美代や、ベアテが学んだ米国のミルズ・カレッジの進歩的フェミニストだった学長にも影響されたと言われています。
日本国憲法の誕生
ベアテは、GHQと日本代表との憲法の折衝で通訳としても活躍しました。
それもまたこの憲法成立に大きく貢献しています。
その卓越した日本語能力で細かなニュアンスを米国側に伝え、時には日本を知る者として日本側の見解を擁護。
そんなわけでベアテは日本代表側にも好感を持たれていました。
米国側は、ベアテがただの会議通訳ではなく、彼女こそが憲法の草案を書いた当人だと日本を説得したといいます。
こうして、ベアテを含むGHQ草案メンバーたちの寝る間を惜しんだ努力、日本とGHQとの涙を交えた激しいディスカッションの末、1946年11月3日に日本国憲法が公布されました。
結局、ベアテが創り上げた非常に細かい草案部分の大半は最終的には削除され、彼女としては非常に口惜しい思いをしたそうです。
しかし、彼女が考える人権についての基本精神は、憲法の根幹の一つとして反映されています。
ベアテの功績
現行の日本国憲法について懐疑的な見方をする人々の中には、「日本を骨抜きにする為の押しつけ憲法だ」「ベアテの父親は実はロシアのスパイだった」と主張する人がいます。
また、彼女の発言の信用性が疑問視されることもあります。
それは、ベアテが日本国憲法の草案メンバーだったと認めて積極的な活動を始めたのが、草案に関わった人々全員が亡くなったあとだからです。
ベアテ自身は、長く草案について沈黙していたのは、若い自分が起草したことを理由に憲法改正に利用されたくないと思っていたからだと述べています。
たとえ日本国憲法がいかなる成立過程を経たものであっても、その条文こそが結果の全てです。
ベアテが誰であれ、どんな立場の人物であったとしても、それまでなかった女性の権利を保障する条項を日本国憲法に取り込んだことは大きな功績です。
「両性の本質的平等」についての規定は、アメリカ合衆国憲法の中にさえありません。
しかし、日本国憲法にはそれが明文化されているのです。
ベアテの草案による「平等」の内容がいかに画期的なものであったかが分かります。
ベアテ・シロタ・ゴードンの遺言は、「日本国憲法の平和条項と女性の権利を守ってほしい」でした。
その恩恵を受けている現代日本の私たちは、それをどう受け止めるべきでしょうか。
コメント
コメント一覧 (1件)
[…] >>後篇につづく […]