ベアテ・シロタ・ゴードンの遺言。日本女性の権利のために・・・(前篇)

<出典:wikipedia

2012年12月30日、すい臓がんのためにニューロークの自宅で89歳の女性が亡くなりました。
彼女の遺言は、「日本国憲法の平和条項と女性の権利を守ってほしい」でした。
女性の名前は、ベアテ・シロタ・ゴードン。
日本人ではありません。
では彼女がなぜ、そんなことを言い残して亡くなったのでしょうか。

22歳の若き日本国憲法起草の女性メンバー

1945年のポツダム宣言を受け入れ、連合国に降伏した日本。
1946年に日本国憲法を公布しました。
「天皇は日本国の象徴」「戦争放棄」「平等権」などを含み、明治憲法とは大きく異なった内容のこの憲法の草案は、実はGHQ(連合国軍総司令部)によって作られたものでした。

連合国軍最高司令官マッカーサーの命令でその草案を作ったのは、ホイットニー民政局長とその以下25名で構成される秘密の憲法草案委員会。
その委員会の唯一の女性メンバーが、当時22歳だったユダヤ系ウクライナ人を両親に持つオーストリア生まれのベアテ・シロタ・ゴードンでした。
彼女は、日本国憲法草案の中の「両性の平等」についての条項を担当しました。
彼女は若いだけでなく、生粋のアメリカ人でさえないのにGHQの日本国憲法草案作りに関わったのでした。

ベアテの幼少時代から大学卒業まで

ベアテはオーストリアで生まれ、オーストリア国籍を所持していました。
両親はウクライナ人で、父親のレオは「リストの再来」と呼ばれたほどの実力派国際的ピアニスト。
日本公演をきっかけに、東京音楽学校(現東京芸術大学音楽学部)で教鞭をとるようになり、ベアテが5歳の時から家族で日本に移住しました。

彼女の家族は日常的に極めて国際的な交流を行っていました。
そのため、ベアテは子供の頃から日本語を含めた多言語に接しており、しかも日本の文化や慣習をよく理解しました。
彼女が6カ国語を自在に操ることができたことが、のちの憲法草案にも大きく役立ちます。

1939年。
15歳のベアテはアメリカに留学。
留学中に彼女は、アメリカに住んで初めて自分の半分以上が日本人であるという自覚を持ち、日本を恋しく思ったそうです。

1941年には、両親が渡米してベアテと休暇を共に過ごしたあと日本に帰国しましたが、これが日米開戦の前にベアテが彼らを見ることができた最後でした。
太平洋戦争の勃発で、ベアテは米国に、彼女の両親は日本に分かれ、連絡も仕送りも途絶えましたが、彼女は語学力を駆使したアルバイトで大学生活を継続させることができました。

大学卒業後の職、そしてGHQでの職

大学をトップで卒業した彼女は、ニューヨークでタイム誌のリサーチャーの職を得ました。
しかし社内の男女の立場は不平等で、女は記者になれず、待遇も低い屈辱的な仕事でした。
しかし、そのとき叩き込んだベアテのリサーチのスキルが、日本国憲法起草の際に大いに役立ちます。

終戦時にベアテは両親を探すために日本に帰国できる職を探し、GHQの民間人リサーチャーとして採用されました。
日本では幸い無事だった両親との再会もかない、ベアテはダグラス・マッカーサーの元で調査専門官として働きました。
そしてモデル憲法起草のメンバーとして抜擢されたのです。

>>後篇につづく

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