<出典:wikipedia>
伊能忠敬 いのうただたか (1745-1818)
1745年。
伊能忠敬は上総国(千葉県)の農家に生まれました。
忠敬は小さいころから学問が大好き。
特に、『塵劫記(じんこうき)』を読んで、数学に興味を持ちました。
18歳になると、忠孝は伊能家の養子になります。
伊能家は酒を造っていましたが、商売は上手くいっていませんでした。
そこで、忠孝は一所懸命働き、商売を立て直します。
同時に、数学・天文・測量の勉強も欠かさずやっていました。
忠敬は、佐原村の名主となって、村のためにも尽くしました。
1783年ころに”天明の大飢饉”が発生すると、自分のお金で大量のお米を購入。
村人たちに分け与えました。
忠敬は50歳になると、商売を子供に任せて学問するために江戸に出ます。
そして、高橋至時(よしとき)から天文学を学びます。
自分の家に観測道具も揃え、測量の知識や技術も学んでいきます。
忠敬は観測のための難しい計算も根気よくやりました。
これに感心した至時は、忠敬に「推歩先生」というあだ名をつけました。
日本を正確に測量!日本地図を作成する!!
一通り天文学を学んだ忠敬は、これまで学んだことを生かして、日本を測量しようと考えます。
1800年。
まずは北海道の測量をするため、幕府に願い出ます。
当時、北海道にはロシア船が現れはじめていたため、詳しい地図が欲しかった幕府はコレを承認。
忠敬は、7か月かけて北海道南部の海岸を歩いて測量し、作成した地図を幕府に提出しました。
次に東日本の地図を5年かけて作成。
しかし、途中で先生の至時は亡くなってしまいました。
忠敬の仕事が幕府に認められると、忠孝は天文方の役人に取り立てられます。
そして、西日本の仕事も幕府の仕事として開始。
必要な費用もこれまで以上に支給されるようになります。
残る西日本の測量に出発した忠敬は、中国地方・四国・九州の海岸と江戸の測量を済ませました。
このとき、すでに70歳を過ぎていました。
ようやく全国の測量を終えた忠敬。
16年間で測量した地図を、日本全体の地図にまとめ上げる仕事をはじめます。
しかし、1818年。
完成前に病気で亡くなってしまいます。
地図は弟子たちによって造りつづけられ、3年後。
『大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)』が完成します。