<出典:wikipedia>
白河上皇(しらかわじょうこう) 1053年~1129年
1053年。
白河天皇は後三条天皇の皇子として生まれました。
この時代、摂政・関白を独占していた藤原氏の勢力が衰えていました。
そのため、後三条天皇は藤原氏を気にすることなく、政治改革をすすめます。
多くなりすぎた貴族の私有地(荘園)を整理。
再び天皇の力を取り戻そうとします。
やがて、後三条天皇のあとをついで白河天皇が即位します。
そして、父の遺志を引き継ぎ、自ら政治を行うようになります。
1086年。
摂関家の勢いがさらに衰えたため、白河天皇は幼少の堀川天皇に位を譲って、自らは上皇となりました。
上皇となることで藤原氏の干渉から逃れ、院で政治を行ったのです。
堀川天皇のあと、鳥羽天皇、崇徳天皇(すとくてんのう)と続きますが、白河上皇はこの3代の天皇のあいだ、約40年間も政権を握ることとなったのです。
白河天皇のすすめた院政とは??
白河上皇は御所に院庁を開き、天皇の後見人として政治の実権を握りました。
そのため、上皇の命令の方が天皇の命令よりも重要なものとなったのです。
院政のもとには、これまで藤原氏の摂関政治で恵まれなかった、中流・下流の貴族が集まりました。
そして、院政のもとで役人となり力をつけていきます。
白河上皇はさらに院の力を強めるため、御所に武士を配置。
こうして、源氏や平氏などの武士が中央へ進出するようになります。
特に、平正盛は上皇に重用され、勢力を広げていきました。
仏教勢力が拡大してしまう
仏教をあつく信仰した白河上皇。
ついに僧となって、法皇(ほうおう)と呼ばれるようになります。
法勝寺などの寺や仏像をつくり、和歌山県の熊野神社などへのお参りも行いました。
ただ、寺を建てるにはお金が必要です。
そこで、白河法皇は費用を負担してくれるものに国司などの地位を与えることに。
こうして、政治が乱れていき、寺院が力を持つようになっていきます。
力を持った大寺院。
自分たちの領地を守り主張を通すため、僧に武器を持たせて僧兵を組織します。
とくに奈良の興福寺や、比叡山(ひえいざん)の延暦寺(えんりゃくじ)は強大な力を持ち、白河法皇も「賀茂川の水」「双六のさい」「比叡山の僧兵」は思い通りにならないと言ったほどでした。
1129年。
白河法皇は息を引き取りますが、その後も鳥羽・後白河上皇によって院政が続けられました。