平将門(平安時代)

Taira_no_Masak

<出典:wikipedia

平将門(たいらのまさかど) ??~940年

 

10世紀はじめ。

平将門は桓武天皇の流れをくむ平氏の子として産まれます。

このころの平氏は、関東地方で勢力伸ばしていました。

将門の父も千葉・茨城あたりの豊田郡一帯を支配していました。

 

平将門が15歳になるころ。

将門の父が急死してしまいます。

そこで、将門は土地を守るため朝廷の高い位を望み、京都へ上ります。

 

左大臣である藤原忠平に仕え、都で10年ほど過ごした将門ですが、望んだ地位は得られず・・・。

結局、故郷の下総に帰ってきます。

しかし、父の残してくれた土地はすでに叔父の平国香(くにか)たちに奪われていました。

 

土地を失った将門。

下総国猿島群に移り、荒れた土地を開墾し、ここを本拠地に力をつけることにします。

935年。

叔父の国香や良兼が将門に攻めてきます。

こうして一族の争いがはじまりますが、将門は国香を倒すことに成功。

その後、良兼をせめ勢力を拡大していきました。

 

関東で勢力を伸ばした将門。

朝廷はこの一件を「一族間の争い」ということで、平将門を許します。

これにより、将門の名が関東に広まり、多くの豪族が従うようになりました。

新皇を名乗る

このころ茨城県で藤原玄明(はるあき)が国司に反抗していました。

玄明は将門に助けを求めると、939年。

将門は玄明を助け、国府を襲います。

ついで、群馬県の上野、栃木県の下野の国府も襲っていきます。

こうして反乱者となった将門は、自らを新皇(しんのう)と名乗ると、新しい国を作りはじめます。

 

940年。

平将門の反乱に驚いた朝廷は、兵を関東へ向かわせます。

しかし、兵がつく前に国香の子である平貞盛(たいらのさだもり)が将門を攻めます。

勝敗はなかなか決しませんでしたが、将門が引き上げようとしたとき一本の矢が将門を貫きます。

こうして新皇を名乗ってわずか50日で将門は死んでしまいました。

 

・・・、現在。

東京大手町のビル街の谷間に将門の首塚があります。

1926年に関東大震災で壊れた大蔵省を立て直すため、塚を壊したところ10人以上もの役人が急死。

あわてた政府が塚を作り直し、現在も将門がまつられているのです。

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