<出典:wikipedia>
第122代天皇
明治天皇 めいじてんのう
(1852年~1912年)
1852年。
明治天皇は孝明天皇の第二皇子として誕生。
母は中山慶子で、名を陸仁(むつひと)といいました。
1866年。
孝明天皇が亡くなると、明治天皇は14歳で天皇となります。
即位した明治天皇を待ち受けていたのは、幕末の激しい動乱でした。
1867年。
江戸幕府15代将軍・徳川慶喜が大政奉還を実行。
形式上、政権が朝廷に返されました。
しかし、徳川家は依然、力を持っており、実質的には徳川幕府による支配が続きます。
そこで、倒幕派は一計を案じ、明治天皇が王政復古の大号令を発することになりました。
これにより、徳川家の力は衰え、戊辰戦争により新たな時代へ突入しました。
幕府が倒れて新政府ができると、まず都の移転が行われました。
それまで天皇は京都に住んでいましたが、東京が居住地となったのです。
東京に都を移したと同時に、宮中改革も実行。
公家たちの華奢な雰囲気を一掃するため。女官を辞めさせました。
そして代わりに山岡鉄舟や村田新八ら士族を配置しました。
明治天皇が英才教育を施される
欧米と対等に渡りあえる国を造るには富国強兵が大切で、そのためには文武に長けた強いリーダーが必要となります。
そこで、明治天皇は英才教育を受けることとなりました。
武術や馬術、相撲などの厳しい教育を通じて、明治天皇は精神面も肉体も鍛えられました。
また、国の発展のためには西洋文化を学ぶ必要もありました。
そこで、明治天皇は西洋風の軍服を着たり、洋食を取るなどして積極的に西洋の文化を取り入れていきました。
1873年。
日本の髷(もとどり・ちょんまげ)が欧米からの評価を下げていると知ると、髷を切り、おしろいでの化粧も止めました。
しかし、「残すべき文化は残す」という考えもあり、和歌などを愛し、プライベートでは和服を着て和食を好んだといいます。
1872年。
新しい天皇の姿を全国に知らしめるため、明治天皇は鹿児島や函館、京都、神戸などまわりはじめました。
この巡幸では、最初のころ西郷隆盛がともに行動していました。
そのため、明治天皇は少年時代から西郷隆盛を慕っていました。
西南戦争で西郷が亡くなった時も、「西郷を殺せとは言わなかった・・・」と周囲に漏らしたといいます。
西南戦争後。
明治天皇は政治教育も受け始めます。
教育を担当したのは佐々木高行など天皇親政派。
その影響を受け、明治天皇も自ら政治を行いたいと考えるようになりますが、その思いは叶うことがありませんでした。
大日本帝国憲法公布。強大な権力を握る
1882年。
軍人勅諭を出して、自らが軍人の大元帥であることを宣言しました。
そしてそれ以降、明治天皇は軍服を着て執務を開始。
夏の暑い日も軍服を脱がず、冬の寒い日も火鉢一つで執務をこなしました。
日清戦争が起きた際も、広島大本営では暖炉を使わず、粗末な部屋で執務を行いました。
ここには「海を渡って戦う兵たちと苦楽を共にしたい」という信念があったのです。
1889年。
大日本帝国憲法が公布されました。
これにより、明治天皇は立憲君主になり、強大な権限を手に入れました。
1890年。
明治天皇は教育勅語をだし、国民に道徳教育の重要性を示しました。
明治天皇は日清戦争を開始することに本意ではなく、日露戦争も開戦に慎重でした。
しかし、いざ開戦となると、見事に国民と国家を一つにまとめあげました。
1912年。
持病の糖尿病が悪化。
61歳で激動の生涯に幕を閉じました。