第124代天皇  昭和天皇

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<出典:wikipedia

第124代天皇
 昭和天皇 しょうわてんのう
(1091年~1989年)

1901年。
昭和天皇は、大正天皇の第一皇子として誕生。
名を裕仁(ひろひと)といい、母は貞明皇后(ていめいこうごう)でした。

裕仁親王(昭和天皇)は素直でまじめな性格で、健康にも恵まれました。
学習院では、厳しい教育を受けた後、東宮御学問所に入ると帝王学を身につけていきました。

1916年。
裕仁親王(昭和天皇)は正式に皇太子となり、お妃選びも本格化。
良子女王(香淳皇后)が選ばれました。

しかし、1921年。
良子女王の家系に色盲の遺伝があることが判明。
元老の山県有朋が婚約辞退を迫りますが、皇太子の意向で婚約の破棄にはいたりませんでした。

裕仁親王(昭和天皇)は20歳で摂政になり、病気が重くなった父・大正天皇に代わって政務を行うようになりました。

1921年。
裕仁親王はヨーロッパ五ヶ国を訪れ、第一次世界大戦の戦地を目の当たりにしました。
また、イギリスでは国王ジョージ5世から立憲君主のあり方について学びました。

1923年。
関東大震災が発生。
裕仁親王は父・大正天皇の代わりに、被災地を視察しました。

同年12月。
虎の門付近で狙撃されるという虎ノ門事件に遭遇しますが、ケガをせずに済みました。

昭和天皇が正式に天皇となる

1926年。
父・大正天皇が亡くなったため、即位して昭和天皇となりました。

即位式では以下のように述べました。
「いよいよ民心の和会を致し、ますます国運の隆昌を進めんことを念い(おもい)、外は即ち国交を親善にし永く世界の平和を保ち、あまねく人類の福祉を益さむことを翼う(こいねがう)

1928年。
満州で張作霖爆殺事件が起こりました。
しかし、田中義一首相は事件の首謀者を罰せず、昭和天皇は田中義一首相を厳しく叱責しました。

その結果…。
田中内閣は総辞職し、その3か月後に田中義一は亡くなってしまいました。
昭和天皇はこの件にひどく責任を感じ、それ以降、政府の方針に不満があっても口を出さなくなりました。

これ以降も事件は続き、血盟団事件、五・一五事件・満州事変などで不穏な空気が漂うようになりました。

1936年。
二・二六事件が起き、政府の要人が次々と襲撃されました。
事件の首謀者は天皇に自分の行動を認めてもらおうとしますが、昭和天皇は激怒。
「私がもっとも信頼する老臣を殺戮することは、私の首を絞めるのと同じことだ!」といって、反乱部隊を鎮圧しました。

第二次世界大戦がはじまる

日本は日中戦争、太平洋戦争へと進み、次第に戦局が悪化。
空襲で皇室の中心使節だった明治宮殿も焼失しました。

1945年8月9日。
ポツダム宣言の受け入れをめぐる会議が行われたが結論が出ず、鈴木貫太郎首相は昭和天皇に決断を求めました。
昭和天皇はポツダム宣言受諾を支持。
「自分はどうなっても、万民の生命を助けたい」と表明します。

8月15日。
玉音放送が流され、国民に終戦が告げられました。

連合国の中には「天皇も戦犯として罰するべき」という声がありました。
しかし、占領統治を円滑に行うため、天皇に戦争責任を問わず、天皇制も存続されることとなりました。

1946年。
昭和天皇は「人間宣言」を発しました。
これにより、「現人神」であった天皇は、人間と国民と同じ人間となりました。
その後、戦争でボロボロになった国民を慰めるため、8年半にわたって全国をまわりました。

1989年。
87歳で、長く苦労を重ねた生涯に幕をおろしました。

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