<出典:wikipedia>
第106代天皇
正親町天皇 おおぎまちてんのう
(1517年~1593年)
1517年。
正親町天皇は後奈良天皇の子どもとして誕生。
1557年に後奈良天皇が亡くなったため、天皇の位を受け継ぎました。
この時代も相変わらず朝廷の財政には余裕がありませんでした。
そのため、1560年になって、毛利元就(もうりもとなり)らの献金によって、ようやく即位の礼を上げることとなりました。
1568年。
財政状況の悪かった朝廷に、転機が訪れました。
織田信長が、足利義昭や他のライバルをけん制するために、朝廷の利用を始めたのです。
織田信長は朝廷へ資金を援助。
御所の修理も行いました。
こうして、天皇と朝廷の威光が高まりました。
信長は戦いで壁にぶち当たった際、天皇の権威を利用しました。
1570年。
朝倉義景・浅井長政との戦いで窮地に陥ると、天皇の勅命で講和。
その後、武田信玄や足利義昭により状況が悪くなると、再び正親町天皇の勅命を利用しました。
こうして、信長は朝廷の権威を高めるとともに、利用もしていました。
一方で正親町天皇も、信長に進言。
高野山・真言宗堂塔の破壊阻止に成功しました。
ただ、こうしたことにより、信長は天皇の存在を疎むようにもなりました。
秀吉により朝廷の権威が高まる
1582年。
朝廷は信長を取り込むため、征夷大将軍か関白か太政大臣の役職に任命することを提案しました。
しかし、信長が返事をする前に本能寺の変が発生。
信長は亡くなってしまいました。
信長の後を継いだのが、羽柴秀吉(豊臣秀吉)。
秀吉も信長のやり方を受け継ぎ、朝廷に黄金や御料地を献上。
朝廷を後ろ盾にして、政権を安定させました。
これに対し、正親町天皇は秀吉に「豊臣」の姓を与え、さらに太政大臣に任命しました。
これにより、秀吉は朝廷の最高権力者となり、天皇の権威も大いに高まりました。
1586年。
正親町天皇は孫の和仁親王(後陽成天皇)に位を譲り、1593年。
70歳で亡くなりました。