<出典:wikipedia>
第91代天皇
後宇多天皇 ごうたてんのう
(1267年~1324年)
1267年。
後宇多天皇は亀山天皇の第二皇子として誕生。
母は洞院佶子(とういんきっし)、名を世仁(よひと)といいました。
1274年。
父・亀山天皇が院政を敷くこととなったため、後宇多天皇は8歳で天皇に即位。
しかし、その年。
北九州にモンゴル軍が来襲しました。
文永の役、弘安の役。
ともに、後宇多天皇が在位中の出来事でした。
1287年。
後深草上皇の巻き返しと幕府の思惑により、後宇多天皇は退位させられてしまいました。
その後は、後深草系(持明院統)の伏見天皇が引き継ぎ、しばらく持明院統の世が続くことになりました。
1301年。
長期間、持明院統が天皇となっている状態に抗議。
後宇多天皇(後宇多上皇)は、後二条天皇を即位させて院政を敷くことに成功しました。
そのあと、花園天皇が即位すると政治から遠ざかりますが、自分の子どもである後醍醐天皇が即位すると、再び院政を開始しました。
その後、1321年には院政を停止し、後醍醐天皇による政治がはじまりました。
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第92代天皇
伏見天皇 ふしみてんのう
(1265年~1317年)
1265年。
伏見天皇は、後深草天皇の第二皇子として誕生。
持明院統の血統で、名を熙仁(ひろひと)といいました。
1287年。
鎌倉幕府の裁量により宇多天皇の皇太子となり、23歳で即位。
2つの家系が交互に即位するという形式の先駆けとなりました。
即位してしばらくは後深草上皇の院政が行われました。
しかし、1290年。
36歳になった伏見天皇は、自分で政治を行うようになりました。
また、この年。
伏見天皇の暗殺が計画されていました。
計画は失敗に終わりましたが、亀山上皇の差し金という噂が立ち、両統の対立が深まりました。
ちなみに、伏見天皇は『玉葉和歌集』を編集し作成したことでも知られています。
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第93代天皇
後伏見天皇 ごふしみてんのう
(1288年~1336年)
1288年。
後伏見天皇は伏見皇子の第一皇子として誕生。
持明院統の家系で、名を胤仁(たねひと)といいました。
後伏見天皇は11歳で即位することになりました。
しかし、亀山上皇によりわずか3年で退位することになってしまいました。
その後、花園天皇や光厳天皇が即位すると、上皇として院政を敷くようになりました。
ちなみに後伏見天皇は、歌集『後伏見院御集』の編集をしています。