<出典:wikipedia>
第89代天皇
後深草天皇 ごふかくさてんのう
(1243年~1304年)
1243年。
後深草天皇は後嵯峨天皇の第二皇子として誕生。
母は西園寺姞子(きつし)で、名を久仁といいました。
1246年。
父・後嵯峨天皇が院政を敷くために、天皇の座を後深草天皇に譲りました。
こうして、後深草天皇はわずか4歳で即位することとなりました。
この時期。
鎌倉幕府が朝廷への介入を強めていました。
そのため、後深草天皇は直接政治に携わることができず、特に実績もあげられませんでした。
また、後深草天皇は生まれつき病弱。
それに対し弟の恒人親王(亀山天皇)は健康で聡明な皇子でした。
そのため、後嵯峨上皇と大宮院の愛情は恒人親王に注がれることとなりました。
1259年。
後深草天皇は間欠熱を患ってしまいました。
このとき、後嵯峨上皇は後深草天皇に無理やり譲位させ、弟の恒人親王(亀山天皇)が天皇となりました。
また、皇太子には亀山天皇の皇子である世仁親王を擁立しました。
このとき、後深草天皇の皇子は全く考慮されませんでした。
この後嵯峨上皇の判断により、大きな遺恨が残ります。
後深草の血統である「持明院統」と、亀山の血統である「大覚寺統」。
2つの勢力が争いを始めるようになっていきました。
<出典:wikipedia>
第90代天皇
亀山天皇 かめやまてんのう
(1249年~1305年)
1249年。
亀山天皇は後嵯峨天皇の第三皇子として誕生。
母は姞子で、名を恒人(つねひと)といいました。
健康で聡明な亀山天皇は、後嵯峨上皇と姞子の寵愛を一身に集めて、10歳で皇太子になりました。
そして、翌年。
兄の後深草天皇が病に倒れると、後嵯峨上皇の意向で天皇となりました。
亀山天皇の即位を見た後嵯峨上皇は次の歌を残しています。
いろいろに 枝を重ねて 咲きにけり
花も我世も 今さかりかも
この歌には、後深草天皇への不満と亀山天皇への偏愛が顔をのぞかせています。
後深草天皇への不満が募る中、後嵯峨上皇は亀山天皇の子どもを皇太子にしました。
しかし、これにより持明院統・大覚寺統対立の火種が生まれました。
1274年。
亀山天皇は子供に天皇の位を譲り、自らは上皇として政治をはじめました。
大覚寺統の基盤を確立させることに成功した亀山天皇でしたが、やがて幕府に反逆心を疑われるようになります。
そして、鎌倉幕府は「持明院統と大覚寺統を交互に天皇にすること」を名目に後深草上皇の院政と伏見天皇の即位を決定しました。
これに失望した亀山上皇(亀山天皇)は出家。
南禅寺を作った後、57歳で亡くなりました。