<出典:wikipedia>
第84代天皇
順徳天皇 じゅんとくてんのう
(1197年~1242年)
1197年。
順徳天皇は、後鳥羽天皇の第三皇子として誕生。
母は藤原重子(じゅうし)、名は守成(もりなり)といいました。
順徳天皇は土御門天皇と比べて才気煥発で、学問にも歌道にも優れていました。
これを見た後鳥羽上皇が、先代・土御門天皇に位を譲らせました。
こうして、14歳で天皇となった順徳天皇。
様々な場所へ行き、華々しい活動をして回りました。
順徳天皇はこの行動で人々に鮮やかな印象を残し、後鳥羽上皇の皇権回復や朝儀回復に貢献しました。
順徳天皇は学者肌の天皇でもあり、故実書『禁秘抄(きんぴしょう)』を著作しました。
これは天皇自身にかかわる故実作法の書物で、皇室の優位性を表す目的もありました。
歌人としての順徳天皇は、『八雲御抄(やくもみしょう)』を制作しています。
小倉百人一首にも順徳天皇の歌が載っています。
ももしきや 古き軒端の しのぶにも なほ余りある 昔なりけり 【内容】 |
1221年。
後鳥羽上皇が鎌倉幕府を倒すために挙兵。
承久の乱が起こりました。
順徳天皇も父・後鳥羽上皇とともに合戦で指示を出すこととなりました。
しかしこれに敗れ、幕府によって佐渡に流されてしまいました。
21年後。
四条天皇が急遽亡くなってしまいました。
そこで、忠成王と邦人王が継承候補となり、京へ帰るチャンスができました。
しかし、幕府の意向で、承久の乱に関与しなかった土御門の皇子が天皇となりました。
これに絶望した順徳天皇は、自ら食事を断って、その生涯に幕を下ろしました。