<出典:wikipedia>
第80代天皇
高倉天皇 たかくらてんのう
(1161年~1181年)
1161年。
高倉天皇は、後白河天皇と平滋子(しげこ)とのあいだに誕生。
名を憲仁(のりひと)といいました。
母である平滋子は平清盛の妻の妹。
中宮(妻)は平清盛の娘の平徳子(とくし)で、高倉天皇は平氏との関係が深い天皇でした。
1168年。
六条天皇が譲位したため、憲仁親王(高倉天皇)はわずか8歳で天皇となりました。
これにより、義父の平清盛は権力を固めました。
高倉天皇は幼少のころから柔和な性格でした。
「主人への届け物を奪われて泣く娘を助け、無くした装束を与えた」など、人望が篤いエピソードが数多くあり、「末代の賢王」といわれていました。
また、学問や詩歌、音楽などの才能もありました。
しかし、政治の世界では義父・平清盛と父・後白河法皇が対立。
板挟みになった高倉天皇はストレスを溜め込むようになりました。
そんな中。
平清盛の娘・徳子が言仁親王を産みました。
すると、平清盛は言仁親王を即位させるため動き始めました。
そして、1180年。
高倉天皇は言仁親王(安徳天皇)に天皇の位を即位することになりました。
上皇になっても政権のなかった高倉天皇
上皇となった高倉天皇(高倉上皇)は、安徳天皇がまだ若かったため、院政を開始しました。
しかし実際は、ほとんど平氏の言いなり。
実権はほとんどありませんでした。
さらに院政開始後。
以仁王(もちひとおう)や源氏一族が挙兵。
福原遷都、東大寺焼き討ちなどの事件も立て続けに起き、高倉上皇の苦労はさらに増していきました。
そして、1181年。
21歳の若さで高倉天皇は亡くなってしまいました。