<出典:wikipedia>
第73代天皇
堀河天皇 ほりかわてんのう
(1079年~1107年)
1079年。
堀河天皇は、白河天皇の第二皇子として誕生。
母は藤原賢子で、名を善仁(なるひと)といいました。
1086年。
白河天皇はわずか8歳の善仁親王(堀川天皇)に皇位を譲ってしまいました。
堀河天皇は優しくて穏やかな性格でした。
宮廷内での人望も高く、政務にも熱心に取り組みました。
役人が提出した文章も、一枚一枚丁寧に読み、気になる場所をチェック。
あとで役人に尋ねたといいます。
『続古事談』によると堀河天皇は「末代の賢王」と称賛されたようで、『発心集』には「天が下治まりて、民安く世のどかなり」と記述されています。
即位したころの堀河天皇は、関白・藤原師通と協力して法皇の権限を抑え、政務を行っていました。
しかし藤原師通が亡くなると、白河上皇が再び政治を行うようになり、堀河天皇は政治への関心を失っていきました。
権力を奪われ音楽や和歌へ
政治の関心を失った堀河天皇。
興味は音楽や和歌などに移っていきました。
特に笛の腕前が優れており、「堀河院艶書合(ほりかわいんえんじょあわせ)」という恋の歌を詠ませえ合う会も開きました。
また、勅撰和歌集にも9首の歌がおさめられました。
ただ、『発心集』によると、堀河天皇は政務から離れたことで心にぽっかり穴が開いてしまい、それを埋めるために音楽や和歌に没頭したようです。
また堀河天皇の第一皇子・宗仁親王(鳥羽天皇)の母が亡くなると、白河法皇(白河天皇)が宗仁親王を引きとって、院で育てはじめてしまいました。
こうして、堀河天皇は白河法皇に翻弄され続け、29歳の時に病気で亡くなってしまいました。