<出典:wikipedia>
第59代天皇
宇多天皇 うだてんのう
(867年~931年)
867年。
宇多天皇は光孝天皇の第七子として誕生。
名を源定省(さだみ)といい、小さいときは臣下として過ごしました。
887年。
先代の光孝天皇の病気が重くなると太政大臣の藤原基経が源定省を皇太子にしました。
そして、光孝天皇が亡くなると源定省は第59代天皇となりました。
天皇となった宇多天皇(源定省)は、引き続き藤原基経に政治運営を任せようと勅書を送りました。
「宜しく阿衡の任をもって卿の任とせよ」
しかし、この勅書に基経は腹を立て、基経は出仕を拒みます。
基経が何に腹を立てたのか分からなかった天皇と左大臣は、問題を追及。
“阿衡”に問題があったことが分かり、研究しました。
“阿衡”とは古代中国の殷の賢臣が任命した役職でした。
“位は高いが職掌がない”役職だったため基経が怒ったのだと考えられました。
この「阿衡の紛議」により、しばらく政治は停滞。
結局、宇多天皇が「阿衡の言葉は失当だった」といって、この問題は解決しました。
「阿衡の紛議」に懲りた宇多天皇は、藤原基経が亡くなると自分で政治を行いました。
藤原保則(やすのり)や菅原道真(すがわらのみちざね)を登用して、行政改革を行い、
897年。
天皇の位を子どもの敦仁親王に譲位しました。
<出典:wikipedia>
第60代天皇
醍醐天皇 だいごてんのう
(885年~930年)
醍醐天皇は宇多天皇の第一子。
名を敦仁(あつきみ)といいました。
897年。
宇多天皇から天皇の位を譲位された醍醐天皇。
宇多天皇のアドバイス通り、藤原時平を左大臣にし、菅原道真を右大臣にして、「延喜の治」と呼ばれる善政を行いました。
律令制度の維持や、田んぼの管理の強化、
律令制度を時代に合ったものにするため「延喜格式」も施行しました。
また、『日本三代実録』の編集や、『古今和歌集』の編集なども行いました。
醍醐天皇のもとで安定した政治が行われる中。
左大臣・藤原時平にとって、右大臣・菅原道真は邪魔な存在でした。
そこで、時平は道真の失脚を画策しました。
「道真が自分の娘婿を天皇にしようとしている」
この訴えを聞いた醍醐天皇道真を大宰府に左遷してしまいました。
大宰府に流された菅原道真が亡くなると、平安京では疫病が流行したり災害が起きたりしました。
人々はこれを道真の怨霊によるものだと考えました。
醍醐天皇も精神的に追い詰められ、天皇の位から降りることになりました。