<出典:wikipedia>
第56代天皇
清和天皇 せいわてんのう
(850年~881年)
850年。
清和天皇は、文徳天皇と藤原明子のあいだに生まれ、名を惟仁(これひと)といいました。
858年。
文徳天皇が32歳の若さで亡くなってしまいます。
そして、藤原良房の力で皇太子となっていた清和天皇は、わずか9歳で第57代天皇に即位しました。
当然、政治運営能力はなく、実権は祖父であり太政大臣の藤原良房が握ることとなりました。
藤原良房の力で、藤原北家の勢いは拡大。
しかし良房には、大局的な視点が欠けていました。
加えて問題解決能力も低く、班田収授法や戸籍の形骸化に対して、ほとんど対策を打てませんでした。
863年。
疫病が流行し、死者も多数でてしまいました。
人々はこの原因を崇道天皇や淡路廃帝など、非道の死を遂げた人物の崇りだと考えました。
そして、霊を慰めるため御霊会を盛んに行いました。
しかし、政府は人が集まることで力を持ってしまうことを警戒。
御霊会の禁止をしました。
衝撃!!応天門が燃える!!
866年。
「応天門の変」が起き、社会を驚かせます。
内裏にある朝堂院の正門である応天門から火災が発生。
火は東西にある両楼にも燃え広がり、完全に消失してしまったのです。
火が消し止められると、伴善男(とものよしお)が右大臣・藤原良相(よしみ)に「火事は左大臣・源信によるもの」と言い、対応を求めました。
これを受け、良相は源信を逮捕しようとしました。
しかし、藤原良房が源信の無実を主張し、伴善男の思惑は外れてしまいました。
「応天門の変」から5ヵ月後。
事態は急転しました。
「伴善男とその子供が応天門に放火した」という密告が入ったのです。
伴善男はこれを否定しましたが、結局、遠流の刑に処せられてしまいました。
こうして、藤原氏の対抗勢力が政界から一掃されました。
869年~871年。
清和天皇は「貞観格式」を完成させました。
これは820年から863年までの格式の集大成で、機能不全に陥っていた律令制度を立て直すものでした。
ただ、法制や修史に力点が置かれていたため、社会の閉塞感を打ち破るようなインパクトのあるものではありませんでした。