<出典:城とか陵墓とか>
第53代天皇
淳和天皇 じゅんなてんのう
(786年~840年)
淳和天皇は、桓武天皇の第三子として誕生。
名を大伴親王といい、「薬子の変」で高丘親王が皇太子から格下げされたため、代わりに皇太子となりました。
823年。
嵯峨天皇から譲位され、第53代天皇となった淳和天皇。
清原夏野(きよはらなつの)など、優れた人材を積極的に採用し、政治改革と皇室財政の強化に取り組みます。
806年。
国司交代のときに起きる紛争を解決するため勘解由使を設置し、権限を強化します。
さらに検非遣使の整備や、勅使田(ちょくしでん)の設置、『令義解』の編集なども行いました。
833年。
正良親王(仁明天皇)に天皇の位を譲り、その後は淳和院で暮らしました。
<出典:wikipedia>
第54代天皇
仁明天皇 にんみょうてんのう
(810年~850年)
810年。
仁明天皇は、嵯峨天皇の子どもとして誕生。
母は橘清伴の娘の嘉智子でした。
833年。
淳和天皇から皇位を譲り受け仁明天皇となりました。
この時代は平和が続きますが、水面下では嵯峨上皇、藤原良房、藤原愛発(ちかなり)、藤原吉野らの勢力争いが続いていました。
840年。
淳和天皇が他界。
842年。
嵯峨天皇が亡くなります。
これにより、水面下で起こっていた争いが表面化。
皇太子・恒貞親王がクーデターを計画しているという情報が入り、恒貞親王は皇太子を外されました。
ただ、これは藤原良房が捏造したものだったとも言われています。
<出典:wikipedia>
第55代天皇
文徳天皇 もんとくてんのう
(827年~858年)
827年。
文徳天皇は、仁明天皇と藤原順子との間に生まれました。
850年ころ。
恒貞親王が藤原良房の策略により皇太子から外されました。
そしてこれにより、文徳天皇が第55代天皇として即位することになりました。
先代からあった勢力争いは文徳天皇のもとでも続いており、藤原良房は自分の孫の惟仁親王(清和天皇)を皇太子にしようとしました。
一方、文徳天皇は惟喬親王を皇太子にしようとしました。
この争いは、高野山を二分する争いに発展。
結局、文徳天皇は藤原家の力を無視できず、最終的に惟仁親王が皇太子となりました。
その後、藤原良房は太政大臣に昇格しました。