<出典:wikipedia>
第45代天皇
聖武天皇 しょうむてんのう
(701年~756年)
701年。
聖武天皇は、文武天皇と藤原不比等の娘のあいだに生まれ、名を首皇子(おびとのみこ)といいました。
714年に皇太子となり、724年に元正天皇から天皇の位を譲り受け、天皇となりました。
聖武天皇が即位すると、左大臣の長屋王(ながやのおおきみ)が即位直後の詔(みことのり)にクレームをつけてきました。
詔では「藤原宮子(聖武天皇の母)を大夫人と称する」としました。
しかし、公式令では皇太夫人と称することになっていました。
この違いをついて、長屋王は聖武天皇を詰問。
これを受けて聖武天皇は詔を撤回し、公式令に従い、皇太夫人とするように命じました。
当時、聖武天皇を支えていたのは藤原不比等の子ども4人。
武智麻呂、房前(ふささき)、宇合(うまかい)、麻呂でした。
長屋王の揺さぶりに屈した4人でしたが、3年後。
反撃の機会がやってきました。
なんと「長屋王が謀叛を企てている」という密告があったのです。
そこで、聖武天皇は宇合らに命じて長屋王の屋敷を囲み、舎人皇子らを派遣して尋問。
長屋王はひとことも弁明せずに、自ら命を絶ちました。
長屋王の妻子もそのあとを追い亡くなりました。
こうして、藤原氏の最大のライバルが消えると、藤原氏の時代がやってきました。
ちなみに、のちに密告は根拠のないものだと判明しますが、藤原氏にとって事実は関係ありませんでした。
藤原広嗣の乱が起こり社会不安が高まる
727年。
藤原不比等の娘の光明氏(こうみょうし)が皇后になり、藤原氏の権力が増大しました。
しかし、737年。
天然痘という病気が流行し、藤原4兄弟が全員亡くなってしまいました。
藤原氏の勢力が衰えると、今度は橘諸兄(たちばなのもろえ)が台頭。
中国(唐)から帰国した吉備真備(きびのまきび)や玄昉(げんぼう)らが官職に採用されました。
740年。
藤原広嗣(ひろつぐ)が「吉備真備や玄昉をクビにしろ」といって反乱を起こしましたが、すぐに鎮圧されました。
この乱をきっかけに、荒れた情勢を立て直すため、聖武天皇は次々に都を移しました。
しかし、疫病は収まらず社会不安は高まるばかり。
そこで741年。
国分寺建立の詔を発布。
743年には毘盧遮那(びるしゃな)大仏造立の詔を出し、不安を鎮めようとしました。
また、苦しくなった財政を立て直すため、墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)を制定。
新たに開墾した土地の私有地化を認め税を増やそうとしますが、これにより貴族や寺院が開拓された土地を買いあさり、荘園が生まれてきました。
749年。
聖武天皇は孝謙天皇に位を譲り、政治の第一線から退きました。