<出典:wikipedia>
第41代天皇
持統天皇 じとうてんのう
(645年~703年)
645年。
持統天皇は、天智天皇と嬪蘇我遠智娘(ひんそがのおちのいらつめ)の娘として誕生。
鵜野讃良皇女(うののさららのひめみこ)という名で、しばらくして天武天皇の皇后となりました。
679年。
天武天皇は、天皇後継者候補を数人引き連れて吉野へ行きました。
そこで後継者争いをしないように「吉野の盟約」を結ばせました。
686年。
天武天皇が亡くなると、皇后の鵜野讃良皇女は盟約に違反。
自分の子を皇位につけるため、ライバルとなる大津皇子を罠にはめて死に追いやりました。
ライバルは消えましたが、鵜野讃良皇女の子どもの草壁皇子は病弱だったため、即位を急ぐわけにいきません。
かといって、中継ぎの意味で他の者を天皇にすると、そのまま天皇の座に居座る可能性があります。
そこで、鵜野讃良皇女は天皇を立てず、自分で政治を運営。
草壁皇子が即位できるまで待とうと考えました。
ところが689年。
草壁皇子が亡くなってしまいました。
加えて草壁皇子の子どもの軽皇子はまだまだ幼い。
そのため、鵜野讃良皇女は正式に即位し、持統天皇になりました。
持統天皇の政策
天皇となった持統天皇は、天武天皇の始めた事業を受け継ぎ、次々と完成させていきました。
689年。
「飛鳥浄御原律令」が完成。
しかし、この法律には令しかなかったため、不完全なものでした。
691年。
大三輪、石上、藤原、石川、巨勢、上毛野、大伴など18の一族に先祖の記録を提出させました。
これらは天武天皇が命じた史書編纂の材料としたようです。
694年。
中国の長安や洛陽をモデルにした藤原京が完成。
都を移しました。
これまでは天皇の宮殿があるところが都となっていましが、全国を支配するには永続的な都が必要です。
そこで作られたのが藤原京でした。
天武天皇・持統天皇によって造られた藤原京は、律令国家の象徴として持統天皇、文武天皇、元明天皇の3代にわたって都として活躍しました。
697年。
持統天皇は孫の軽皇子に天皇の位を譲り、703年にその生涯に幕を下ろしました。