<出典:wikipedia>
第38代天皇
天智天皇 てんじてんのう
(626年~672年)
645年。
中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)は、乙巳の変で蘇我氏を滅ぼすときに活躍しました。
そしてその後、孝徳・齋明天皇のもとで改革を進めまました。
660年。
中国(唐)の力を得た新羅が朝鮮半島で勢力を伸ばしていました。
そして百済は新羅に滅ぼされ、日本に助けを求めてきました。
日本はそれに応じ、朝鮮半島に大軍を派遣。
しかし、惨敗してしまい、朝鮮半島は新羅が統一してしまいました。
すると、今度は日本が危機に陥ります。
中国と新羅が協力して日本に攻めてきたら、日本の存亡に関わるのです。
そこで、中大兄皇子は大宰府を設置。
水城と山城を張り巡らせ、対馬や筑紫に防人(さきもり)を置いて監視を強化しました。
また、同時に、積極的に外交を開始し、中国と新羅との関係を回復しました。
朝鮮での戦闘は、日本の中央集権化を進めるのに役立ちました。
朝鮮で惨敗した兵の多くは九州の豪族の部隊。
それに対して、ヤマト政権の主力は国内に残っており、朝鮮での被害がほとんどありませんでした。
そのため、相対的に中央の力が増し、中央集権化につながりました。
日本の安定。即位して天智天皇となる!!
664年。
百済に派遣された占領軍司令官が使者を送り、日本に表(ふみ)と贈り物が届きました。
これを機に、次々に使者がやってくるようになり、669年には2000人もの人がやってきました。
この中には各分野の専門家も多く、国家経営をサポートしたのではないかと考えられています。
同年。
中大兄皇子は「冠位二十六階」を制定。
冠位を与える人数を大幅に増やして指示を集めました。
667年。
都を近江京に移し、国内が安定してきます。
そして668年。
ようやく中大兄皇子は即位し、天智天皇となりました。
即位した天智天皇は、「近江令」を発布。
670年には、全国を網羅した戸籍を作りました。
671年。
子どもの大友皇子を太政大臣、蘇我赤兄臣(そがのあかえのおみ)を左大臣、中臣金連を右大臣に登用しました。
しかし、これは皇太弟の大海人皇子には不満のある人事で、次の題で争いの種となってしまいました。